お、またお店にディスプレイされているメモラビリアの内容が変わっているぞ。細野晴臣の名作『泰安洋行』の販促グッズなんて初めて見たな……とかなんとか言いながら、パイドパイパーハウスのあるタワレコ渋谷店5階から、B1階のCUTUP STUDIOへと向かう。この日のトークショウのお相手は、パイドパイパーハウスの常連であった小西康陽氏。店主・長門芳郎氏の著作「パイドパイパー・デイズ 私的音楽回想録1972-1989」でも詳細に語られているが、長門さんはピチカート・ファイヴのデビューに関わった重要人物。『カップルズ』と『ベリッシマ』という初期の2作がCDとアナログでリマスター・リイシュ-されるということで、対談が実施されることになった。聞けばこのお2人、最近まで十数年間会っていなかったという。
間違いがいろんな縁を生んだりする(長門)
小西康陽「僕が長門さんを知ったのは、高校時代に読んでいたミニコミ誌〈ポプシクル〉。音楽評論家の木崎義二さんが個人的に出していた雑誌で、そこに長門さんが寄稿されていたんですが、ちょうど僕が知りたいような音楽のことを書いていらっしゃった。なので憧れの存在だったんです。僕、大学が青学(青山学院大学)だったんですが、合格発表の結果を札幌の親に報告するのに、パイドから電話かけたんですよ(笑)」
長門芳郎「ピンクの公衆電話があったんですよ。オープン当初にね」
小西「もう嬉しくて(笑)。それからお店通いが始まったんですけど、その頃、長門さんはお店にいました?」
長門「それって78年のこと? 77年の秋からお店に出ていたんだけど、まだ他の仕事もしていたんで、出たり出なかったりだったね」
小西「いまは毎日来てるんでしょ(笑)?」
長門「ほぼね。小西くんと実際に話をするようになったのは83年ぐらい。ピチカートを始める直前だったっけ」
小西「2年ぐらい前ですね。その頃は大学を卒業してから何もしてなくて、ブラブラしていた時期。で、その1年前、〈ポプシクル〉に長門さんがアラン・ゴードンとゲイリー・ボナー※というソングライター・チームの記事を書いていたんですが、そこに〈ゲイリー・ボナーが吹き込んだアルバムは未発表〉と書いてあったんですよ。だけど僕、それを持っていて」
※ゲイリー・ボナー&アラン・ゴードン:60年代後半のアメリカン・ポップス・シーンに確かな足跡を残したソングライター・チームで、ジェイク・ジェイコブスも在籍した幻のフォーク・ロック・バンド、マジシャンズのメンバーだった。代表曲はタートルズの全米No.1ヒット“Happy Together”。もともとヴォーカリストであったゲイリーはソロとして数枚のシングルをリリースしており、67年にリリースした唯一のソロ作『Gary Bonner』はファン垂涎のレア盤となっている
長門「だから当時、間違ったことをいっぱい書いているんだよね(笑)。資料とか何の手掛かりもないまま記事を書いていたから。でもそういう間違いが結局、いろんな縁を生んだりするというね」
小西「ピーター・ゴールウェイがジョン・セバスチャンの弟だって書いちゃったんだよね?」
長門「僕だけそう思い込んでいたんだよね。それをファンジンに書いたんだけど、実際にセバスチャンに会って確認したところ、違うよって笑われて。じゃあどこで何してるんだ?って訊いたら、メイン州のポートランドでライヴをやっていると。それを読んだ吉峰譲くんが手紙を書いて、彼を探し出しちゃうんだ。それで初来日を果たしたんだけど、僕の間違いがなければ起きていない出来事なんだよね(笑)」
小西「そうか、あの間違いがなければ僕と長門さんの出会いはなかったかもしれないんだ(笑)」
長門「で、小西くんがやってきて、このレアなレコードを僕にプレゼントしてくれた」
長門さんがカバンからゲイリー・ボナーのアルバムを取り出す。会場に広がる静かな歓声。
小西「僕もレコード・コレクターなんで、そんな簡単にレコードをあげたりしないと思うんです。きっと2枚目が手に入ったか何かで渡しに行ったんじゃないですか?」
長門「これを僕に見せて、〈(ゲイリー・ボナーのアルバムは)出てますよ!〉ってツッコミたかったんだろうね。でもね、僕は誤った情報を伝えたときはいまでもちゃんと訂正はするよ。CDのライナーだったら、次のリイシューの際に書き直したり。あとはTwitterで謝ったりとかね。そうそう〈パイドパイパー・デイズ〉が重版になりましたが(会場から拍手)、何か所か直しました(笑)」
お近付きの印にレコードを持参した小西さん。その後もソフト・ロックのミックステープを長門さんにプレゼントしたりしながら交流は続いていくが、そのなかにピチカートのデモテープもあったという。
小西「ピチカートのデモを最初に渡したのは長門さんでしたから」
長門「小西くんの手書きによるカセットテープ。今度(店頭にある)メモラビリアのショウケースに入れてもいい?」
小西「いいですよ。でもあのメモラビリアのケースはすごい。僕が持っていないものもいろいろあったから。あの佐々木麻美子さん※が一人で写っているアー写。曽我部(恵一)くんとのトークショウの最中に発見して、仰天しましたよ。こんなものあったんだ!って」
※84年に結成されたピチカート・ファイヴのオリジナル・メンバーでヴォーカリスト。87年に脱退
長門「僕はグレイテスト・ヒッツ※という会社の社長をやっていたんで、そういったものを事務所で管理していたんだよ。それを捨てないで取っておいた。そうそう、佐々木麻美子ちゃんが先日お店に来てくれたの。ひょっとして僕がいるかもしれないと思って、すごく可愛い娘さんと一緒に来てくれたんだ。20年ぶりぐらいの再会だった」
※86年に設立されたピチカート・ファイヴのマネージメント事務所
そこからお2人による佐々木麻美子の思い出話に花が咲く。ピチカートでデビューした後に、犬を助けて新聞に載ったことがある、なんていうちょっといい話なんかも飛び出したりしつつ、デモテープの内容についての話が続いた。
小西「鴨宮(諒)くん※1がDX-7、高浪(慶太郎)くん※2がMTR、そして僕が親父から譲り受けたパソコンを持っていて、そこから打ち込みのデモを作っていった。完璧に演奏できるメンバーがいなかったので」
※1 ピチカートのオリジナル・メンバーでキーボーディスト。87年にヴォーカルの佐々木麻美子と時を同じくして脱退。その後はマンナやThe END of the WORLDなどのユニットを結成。作家としても、吉川ひなのや八代亜紀らへの楽曲提供、TV番組のテーマソング制作など幅広く行っている
※2 同じくピチカートのオリジナル・メンバーでギタリスト。94年に脱退後は、主に作家として活動。小泉今日子や稲垣潤一、野佐怜奈などの楽曲を手掛けるほか、ソロやarcorhymeなどのユニットで作品を残す。2015年には星野みちるが参加したデビュー30周年記念シングル“めもらんだむ”を発表
あの2枚は〈辛い〉レコードでもある(小西)
長門「でも最初聴いたときにビビッときたんだよね。当時僕はマネージャー業から完全に足を洗ってパイドの仕事に専念していた。77年に細野さんと山下(達郎)くんと(吉田)美奈子の事務所を作ったんだけど、上手くいかなくて辞めたの。だけど、そのデモテープを聴いて、これはどうしてもデビューを見届けたいという気持ちが湧いてきたんだよね。で、僕がやっていたビリーヴ・イン・マジックというレーベルからレコードを出そうと画策してね。広告なんかに〈COMING SOON〉と載せたりして、名前を広めようとしたんだ。彼らの好きな100枚を掲載したりもした。でも昔はそういうのがよくあったよね?」
小西「そうそう、〈リンゴ・スターの好きな食べ物は中華料理〉とか(笑)」
長門「〈ボビー・ライデルの趣味はカフス・ボタン集め〉とかね。海外のティーン雑誌にそういうのがよく載っていたりしたわけ。で、ピチカートのテープの話だけど、細野さんのところにも渡ることになって、彼もまたビビッとくるんだよ」
小西「それは和田(博巳)※さんから渡ったんですよ。和田さんが細野さんのマネージャーに就いて1日目の夜、車で細野さんを自宅へ送り届ける途中に俺んちがあって、寄ってくれたんです。いきなり〈これから細野さんと行くから〉と連絡があって」
※今年45周年記念ライヴを行ったはちみつぱいのベーシストであり、現在はオーディオ評論家として活躍中。レコーディング・ディレクターや音楽プロデューサーとして、ピチカート・ファイヴ、あがた森魚、オリジナル・ラヴなどのアルバム制作に携わっている。また、高円寺にあった伝説のジャズ喫茶、ムーヴィンのオーナーとしても知られるが、一時札幌に戻って喫茶店を経営していた頃に当時高校生だった小西康陽と出会っている
「そのときロジャニコのアルバムが部屋に飾ってあったんですか?」と司会の行達也さんから質問。小西さんの部屋を細野さんが初訪問した際に、〈お、ロジャー・ニコルズ!〉と喜んだというポップス・ファンの間では有名なお話。
小西「飾ってあったというか、たまたま聴いていたんですよ。それだけなんです」
長門「へ~。細野さんが部屋に来る日、ヤング・ブラッズのシングルを飾っていたのは大滝(詠一)さんだっけ?」
小西「そうそうそう。で、細野さんがいきなりいらっしゃって、言われるがままに制作中だった音源を聴かせたんですけど、全然褒めてくれなかったですね。うんうんうん……みたいな感じで頷いていて。で、そのまま帰っていった。その3日後ぐらいに、〈ビリーヴ・イン・マジックというレーベルをやるんだけど、ちょっと話がしたい〉と長門さんから連絡が入って。そこで細野さんとお会いした話をしたら〈やっぱ細野さんは早いな!〉って笑ってた」
長門「でもまぁそれは必然だったんだろうね。そりゃあもう絶対に細野さんのレーベルでやったほうがいいと僕は伝えた。細野さんのプロデュースということでメジャーから出るならそれに越したことはないから。で、彼のレーベル=ノン・スタンダードから12インチが2枚出るんだけど、僕はそのレコーディングの見学に行ったんだよね。僕が関わるようになったのは、その後のソニーに移ってから」
そのソニー時代というのが、このたびリイシューされたピチカート・ファイヴの初作『カップルズ』と2作目『ベリッシマ』の時代。ロジャニコやバート・バカラック、ジミー・ウェッブにニルソンなど、パイドがレコメンドしていたアーティストたちへのオマージュに溢れる『カップルズ』には、長門さんが日本語詞を付けたジョン・セバスチャンのカヴァー“マジカル・コネクション”も入っている。その2枚の新装盤をお店でヘヴィー・ローテーションしている長門さんは、「20数年前と同じことをやっているんだよな」と笑う。
司会の行さんが言っていた通り、才能のある人たちを引き寄せる長門さんの力は本当にすごい。はっぴいえんど、ティン・パン・アレー、シュガー・ベイブ、ピチカート・ファイヴ――まさしくジャパニーズ・ポップスの歴史と言える面々だ。「引き寄せますかぁ」と茶化してみせた長門さんだが、ポップス史における彼の功績は〈銅像を作ってもいいレヴェル〉だという行さんの提案に僕も手を挙げたい。
長門「(銅像を建てるのは)渋谷はどうかなぁ。南青山だったらいいけど(笑)。でも、周りにいた人がすごかっただけなんだよ。まぁ、見る目はあると思う。ただみんな、僕が離れた後に売れるんだよね(笑)」
今回のトークショウのために長門さんが用意していたのは、ピチカート・ファイヴの秘蔵ライヴ映像。87年12月16日に、東京・芝浦インクスティックで行われたクリスマス・パーティーから、バート・バカラック“Bond Street”のカヴァーの触りだけが会場で流された。『カップルズ』をリリースした年の末に行われたこのワンマン・ライヴは、メンバー・チェンジが行われる直前の公演。ビターな記憶もいろいろと甦ってくるのか、ところどころで言葉を詰まらせながら話す小西さんの様子がとても印象的だった。
小西「だからさぁ、今日こんなに集まってくれてすごく嬉しいんだけど、僕にとってあの2枚は〈売れなかった〉ということで辛いレコードでもあるんですよ」
そんな不遇のレコードも、いまのポップス・フリークにとっては宝のような存在となっている。CDへの移行期も重なって、1,100枚しかアナログ盤がプレスされなかった『ベリッシマ』に至ってはファン垂涎の一枚で、ネット・オークションにおいて10万円で落札されたという話もある。聞けば、制作者である小西さんもそこでゲットしたのだそう。
小西「3、4年前に突然アナログで聴きたくなったんですけど、家を探してもなくて。実家に10枚はキープしていたはずなんだけど、お父さんや弟が誰かにあげちゃったんですよ。今回のリマスターは、吉田保さんのミックスが素晴らしくって驚きました。僕はこの2枚以降、保さんのサウンドから離れよう離れようとしていたように思うんです、無意識的にね。でもいま聴き返してみると、〈やられた!〉って感じですよ。当時の6mmのマスターテープの音が良かったので、これは安心できると思ったんですけど、リマスターをして海外でカッティングを行い、ブライトな音になったなと」
小西さんにとっての〈パイド・パイパー・デイズ〉が浮かんで見えるような2枚の名作。リマスターの仕上がり具合も素晴らしく、胸躍るスウィートな楽曲たちがより瑞々しさを伴って迫ってくる。これを機にいっそう再評価が高まっていくことは間違いないだろう。