京都在住のシンガー・ソングライター、中村佳穂が最新アルバム『AINOU』をリリースしたのは昨年11月。同作の独自性については、発表時よりMikikiでも特集したので、そちらを読んでいただきたいが、暮れに発表された数々の〈年間ベスト企画〉でも軒並み選盤されていたことをふまえると、もはや近年のポップ音楽における〈名作〉と言いきってもいいだろう。そんな『AINOU』のリリース・パーティー東京編が、昨年12月22日、下北沢の440とclub 251で開催された。今回は『AINOU』特集・番外編として、早々にソールドアウトしたこの日のライヴ・レポートをお届けする。書き手は、映画や文学、音楽を扱う人気ブログ〈空中キャンプ〉の主宰であり、TBSラジオ〈アフター6ジャンクション〉への出演などでも人気を博してきた伊藤聡。リリース直後に『AINOU』を発見し、その素晴らしさをTwitterなどでも度々発信してきた彼が、作品自体の魅力を分析したうえで、中村佳穂という音楽家としての才能をどこまでも奔放に解き放っていたという当日の模様を綴った。

★中村佳穂『AINOU』特集記事一覧
Pt.1「私は私、あなたはあなた、だからこそ出会える」中村佳穂――音楽を愛し、音楽に愛されし才媛の生きる道
Pt.2 中村佳穂『AINOU』はなぜ2018年を代表する名盤なのか? 柳樂光隆、佐藤文香、松永良平がクロス・レヴュー
Pt.3 中村佳穂『AINOU』を作った男たち――荒木正比呂×深谷雄一×西田修大×MASAHIRO KITAGAWAが制作秘話を明かす

 

誰も聴いたことのない歌

サブスクリプション・サービスが、音楽を聴く手段の中心となってしばらく経つ。音楽ファンにとって理想的なサービスである一方、実際に使用しはじめてみると、生活のなかで音楽のために使える時間をはるかに超えた数の楽曲が次から次へと押し寄せてきて、記憶しきれないことに気づく。お気に入りの曲を発見するたびに興奮し、あれもこれもと欲張ってリストへ放り込んでいくと、しだいにどの曲がどんなふうに好きだったのかうまく思い出せなくなるのだ。ラジオで流れていた曲、SNSで初めて知ったミュージシャン、レコメンド機能が表示する新しい作品。日々、覚え切れないほどの情報が押し寄せてきて、記憶がぼやけてしまった経験はないだろうか。お気に入りのアルバムや曲を覚えていられないなど、サブスクリプションを始めるまでは考えもしないことだった。

かくしてサブスクリプション以降、無数の作品が絶え間なく聴き手に届けられるなか、〈記憶に残る音楽〉を届けることのハードルは格段に上がったように思う。だからこそ、京都在住のミュージシャン、中村佳穂のセカンド・アルバム『AINOU』を初めて聴いた瞬間の驚き、目の覚めるような新鮮さについての文章を書く必要がある。数多くの音楽ファンが、一聴した途端「こんな歌は聴いたことがない」と直感できるほどに特別なサウンドを、なぜ彼女は作ることができたのか。歌詞やメロディー、声は誰にも似ていないのだが、楽曲全体はとてもポップで軽やかに聴こえるという絶妙なバランス。『AINOU』は、情報の洪水にあっても決して忘れようのない音楽であり、膨大なリストのワン・オブ・ゼムにはなりえないオリジナルな表現だからこそ、これほどの反響があったのだ。

 

いまのポップスに必要な音像

2018年11月に発表され、リリース直後から並外れた注目を集めた『AINOU』。2016年のファースト・アルバム『リピー塔がたつ』が、中村本人の手売りを含む小規模な流通で販売され、いまでは入手困難な現状を考えれば、『AINOU』は実質的な全国デビュー作と呼んでいいだろう。この大きな反響には多くの理由があるはずだが、そのひとつに、作品が録音物としてすぐれており、現代のポップ・ミュージックらしい音像をめざしたミックスが施されていることが挙げられるのではないか。『AINOU』はまず何より音がいいアルバムである。ceroの髙城晶平も同様の指摘をしていたが、楽曲内で鳴る音がどれも非常にクリアで耳に心地よく、力強い。たとえば“GUM”のうねるようなシンセベースや、“get back”で細かく鳴り続けるハイハット。あるいは、“きっとね”で重ねられる豊かなコーラス。例を挙げればきりがないが、こうした音像には、いまの中心的サウンドであるダンス・ミュージックやヒップホップにも通じる鳴りのよさがあり、繰りかえし聴きたいと思わせる楽曲そのものの強度につながっている。

中村自身、サウンドメイクを重視した音楽を作りたいという明確な意図を持って制作にあたったとインタヴューで語っているが、彼女が直感したように、いまのポップ・ミュ―ジックでは、どのような音が鳴っているか(ミックス・音像)によって曲の印象が決まる側面が大きい。こうした点について意識的なミュージシャン、たとえばKIRINJIの堀込高樹は、自身の音楽制作について「自分がやっていることをポップスとしていま機能させようと思うと、ダンス・ミュージック的な音像、音圧は避けて通れない。低音の感じや上の伸び方は、いまの音楽を参考にした」(ラジオ番組内での発言を要約)と説明している。『AINOU』に関わったミュージシャンたちへのインタヴューを読むと、彼らが作品における音の印象、鳴りを強く意識しながら制作していたことが語られている。「音のチョイスは本当に大事。普通の曲になっちゃうかどうかの分水領だと思う」(録音を担当した荒木正比呂)と語る周囲のミュージシャンたちは、音色の選択、録音からミックスに至るまで、音像の機能性を念頭に置きつつ完成させていったことがわかる。

 

ディープ禁止令 

くわえて興味ぶかいのは、レコーディング中スタジオに掲げられたという 〈ディープ禁止〉の貼り紙である。中村は他のミュージシャンたちと2年半の制作期間を経てアルバムを完成させたのだが、その際の合い言葉となったのが〈ディープ禁止〉だったという。では彼らが禁止した〈ディープ〉とは、具体的にどういった意味か。言い換えれば、誰に対しても伝わりやすい表現であることや、ポップ・ミュージックの枠組みから大きく外れないこと、軽やかであることなどだろう。逆に考えると、みずからに〈ディープ禁止〉を課さなければ、聴き手へと伝わりにくい表現の深みにやがて落ち込んでしまうという意識を持っていたことがうかがえる。

ポップであることと、ディープであること。思うに、中村佳穂を理解するキーワードは〈ポップとディープのバランス〉ではないか。このバランスにこそ、彼女のユニークさがあるように思えてならない。『AINOU』が特別なのは、彼女にしか書けない歌詞やメロディーがあったためだ。中村ならではの思いもよらない発想や意外性、いわばディープな面にこそ、聴き手は新鮮さを感じた。しかしそのディープさは取り扱いがむずかしく、表現は人びとに伝わりやすいよう適切にコントロールされる必要がある。そのバランス調整こそが、2年半の制作過程における試行錯誤だったのではないか。こうして説明しながら、あたかも猛獣のように創作をおこなう中村と、彼女を必死に制御する猛獣使いのミュージシャンたちという微笑ましい図式が浮かんできてしまう。