本作は胸騒ぎを掻き立てる不穏さと妖しい美しさを同時にたたえた、短いインストゥルメンタルで幕を開ける。“DVD Menu”と名づけられたその曲は、そのまま地続きに次曲“Garden Song”へと流れ込んでいく。ヴァシュティ・バニヤンを彷彿させる幽玄にしてどこかファニーなそのフォーク・ナンバーのなかで、フィービー・ブリジャーズは画面に見入るかのように、幼少期の自分と対面する。しかし過去へ向けられていたはずの視線はいつしか反転し、気が付くと現在の自分へ向けられている。その後の歌詞においては、やがて過酷な体験をすることになる自分自身の運命を労わるような眼差しと、それを突き放すような態度とが交錯している。
後に続く曲においても同様に断片的な、しかし具体的なエピソードが語られては消えていく。まるで目覚めるそばから消えていく夢のように。だがそれらは必ずしも、彼女が自分の目で見てきたものだけで構成されているわけではない。そこには少なからず想像の産物も混じっている。たとえば日本滞在の経験からインスピレーションを得て作られたという“Kyoto”のなかに〈その町では電話ボックスがいまでも使われている〉というフレーズが出てくるが、それに関して彼女はあっけらかんと言う。「あれは完全に空想なの。ググったりさえもしてないし」。
その述懐は彼女が実際に生み出した楽曲の瑞々しい魅力とあいまって、図らずもエヴィデンス至上主義に対するユーモラスで痛烈なカウンターとなっている。淡い記憶も突飛な空想も共に現在の自分が構成するものであり、その点でそれらは事実と遜色ない真実性を有しているのだ、と。そして、ストリングスの当て方やドラムのダイナミクス、電子ノイズの重ね方などを曲の内包する感情に合わせて細かくコントロールする緻密なアレンジ・ワークによって、彼女のパーソナルな作品としての本作の真実味は一層引き立てられている。
記憶と空想を丁寧に縒り合わせて作られた本作は現在の彼女の充実ぶりを余すことなく伝えると同時に、彼女の未来をも照射している。そしてその柔らかな光はまた、本作を聴く私たちひとりひとりをも優しく照らし出すことだろう。