「もののけ姫」の〈ドラマ〉を見事に歌い上げた〈運命〉の歌手・米良美一のこと

 「もののけ姫」の音楽のことを書こうとすると、真っ先に米良美一のことを思い出してしまう。誰もが、あの有名な主題歌のことは知っている。その歌が、米良ちん――敢えてそう呼ばせていただきたい――の人生を大きく変えたことも知っている。幸運にも、僕はその〈運命〉の瞬間をごく間近で目撃することが出来た。

 1997年、米良ちんはすでにバッハ・コレギウム・ジャパン(BCJ)のソリストとして注目を浴び、BISからソロ・アルバムのリリースも決まり、いよいよ歌手として大きく羽ばたこうとしている時期だった。インタビューなどを通じて意気投合した米良ちんと僕は仲良くなり、BCJの打ち上げにお邪魔したり、映画を見に行ったり、飯を食べに行ったりするようになった。当時、「SEPTEMBER songs~9月のクルト・ヴァイル」という映画(4月に新型コロナ・ウイルス感染症で亡くなったハル・ウィルナ―が音楽プロデューサーを務めている)が渋谷の映画館で掛かっていたので、彼を誘って見に行った。その中でテレサ・ストラータスの歌う“スラバヤ・ジョニー”が気に入った米良ちんは〈あの濃厚な歌は凄いよね~〉と感心しながら、早速ストラータスばりの歌を披露してくれた(のちに彼は“スラバヤ・ジョニー”を録音している)。そして、シングル・リリースされたばかりの「もののけ姫」主題歌のCDを掛けると、目の前で朗々と歌い始めた。米良ちんの生歌で初めて聴く主題歌は、とても不思議な曲だった。まだ映画公開前だったので、それがどういう場面で流れるのか皆目見当もつかなかったが、まさに〈もののけ〉としか言いようのない霊的な魅力に溢れた歌だった。

 実は米良ちん、主題歌の録音セッションで試行錯誤を重ねながら、あのような歌唱表現に到ったことを、ずいぶんあとになってから知った。そもそも彼は歌手だから、歌の中で描かれている〈ドラマ〉をアーティスティックに表現するのが本領だし、実際、彼は昔も今も〈ドラマ〉の表現に関して、ずば抜けた感性と才能を備えている(今にして思えば、彼が“スラバヤ・ジョニー”をとても気に入っていたのも、それが深い〈ドラマ〉を内包していたからだろう)。だから「もののけ姫」の主題歌でも、米良ちんは自分なりに解釈した〈ドラマ〉を表出したかったのだが、宮崎駿監督の当初のオーダーは〈呟くように〉。それは、歌の中の〈ドラマ〉を殺すことを意味するので、米良ちんはリハーサルの段階で大いに苦労した(メイキング・ビデオ「『もののけ姫』はこうして生まれた。」の中で、その様子がリアルに記録されている)。翌日、録音スタジオに原画とセルを携えて現れた宮崎監督は「(この曲は)アシタカのサンへの気持ちを歌っている……呟くように、と言ったのは(アシタカの)心の中の声なので」「男の子が歌っている感じ」と、米良ちんに直接指示を出した。その指示を彼なりに解釈し、アシタカの視点で歌った結果たどり着いたのが、あの主題歌の歌唱表現、すなわち〈ドラマ〉なのである。

 それから23年が経った今、『もののけ姫/サウンドトラック』LPのライナーノーツを書くために本編を見直してみると、この主題歌がもうひとつ別の〈ドラマ〉を体現していることに気が付いた。曲が流れるシーンで、美輪明宏演じる犬神モロがアシタカに向かって次のようなセリフを呟く。「つらいか……そこから飛びおりれば簡単にケリがつくぞ。体力が戻れば痣も暴れ出す」。痣は〈死の呪い〉、つまり不条理な運命のメタファーでもある。アシタカ、すなわち我々人間は、その運命を背負いながら生きざるを得ない。その壮絶な〈ドラマ〉を、米良ちんは――録音当時は無意識だったかもしれないが――自分自身に重ね合わせていたのではあるまいか。だから、のちに米良ちんが美輪さんの“ヨイトマケの唄”を歌うようになったのは、ある意味でモロ=美輪さんの問いかけに対する音楽的解答とも言えるだろう。

 米良ちんは「もののけ姫」の主題歌を歌ったことで、〈運命〉の歌手として生きる道を選んだ。歌詞に出てくる〈悲しみと怒り〉が蔓延する2020年の現在、米良ちんの歌声が不条理な運命に目を背けることなく、〈まことの心を知る森の精〉のように訴えかけてくると感じるのは、僕ひとりだけではないはずだ。

 今回初LP化となる3枚(新規リマスタリング)は、音楽を担当した久石譲が「もののけ姫」の作曲をきっかけに大きく変容していく過程を捉えた貴重な記録。宮崎駿監督の音楽メモを基に作られた2は、シンセ中心の演奏で“アシタカせっ記”“タタリ神”“もののけ姫”(vo:麻衣)“アシタカとサン”の4大テーマを含む。1は、本編使用曲のほぼ全てを物語順に収録。米良の名唱、熊谷 弘指揮東京シティ・フィルの熱演も忘れ難い。前島秀国による新規ライナーを封入。3は、映画公開の翌年にチェコ・フィルで録音した交響組曲版。クラシック作曲家としての久石の側面が垣間見える。