音楽とその背景から音楽を捉え直す
「熱帯の真実」
カエターノ・ヴェローゾ 著 国安真奈 訳
本書は、1960年代後半のブラジルで興った、音楽を中心にした文化芸術運動であったトロピカリズモ(あるいはトロピカリア)を、ジルベルト・ジルやムタンチスらとともに牽引したカエターノ・ヴェローゾによる自伝的ブラジル音楽文化論と言うべき大著である。
しかし、著者も言うように、各章は、ある時代、ある話題について書かれ、時系列にそって並べられてはいるが、どの章からでも好きなように読むことができる。気軽に任意の章を開いて読み進めるのもよいだろう。時系列の展開は、それぞれの結びつきをあまり強めずに書かれている。幼少からの音楽体験、ボサノヴァの革新、トロピカリズモの運動、軍事政権下において反体制活動のかどで逮捕され、そして2年間のイギリス亡命、といった出来事を通じて、社会、文化、政治についての眼差しを向けている。
そこでは、トロピカリズモが、同時代的な文化全般との影響関係の中で育まれたものであることが、ところどころに散りばめられた芸術・文化・思想関係の固有名からもうかがえる。著者が「抽象主義的な染みのような絵」を描いていたことや、トロピカリアの歌詞とダダ(20世紀初頭の前衛芸術運動)との関係など、美術に関心のある人も引き込まれるトピックも多くある。1950年代後半に、サンバの新しい波として登場したボサノヴァ、そして、当時世界を席巻しつつあった欧米のロック・ミュージックやサイケデリック・ムーヴメントに影響を受けながらも、ブラジルの伝統的音楽を見直し、新しい音楽の創造をめざしたトロピカリズモだが、ボサノヴァを「自分たちの反抗のサウンドトラック」としてきた世代である著者の、ロックへのある意味での無関心が語られてもいる。
著者は、本書が「音楽との関わりが強くなったことから中断した評論活動を再開すること」であり、自叙伝ではない、と言っている。たしかに、本書には、トロピカリズモの時代の音楽文化における、社会的、思想的背景が記されている。しかし、それが不可避的に個人史とオーヴァーラップしてしまうのは、著者がサンバの改革としてのボサノヴァを同時代に体験し、自身がその中心的な存在として、ブラジルの文化革命を体現していたことの証左であるだろう。
「音楽史に刻まれたロックーー英国プログレッシブ・ロックと反体制文化」
エドワード・マッカン 著 余田安広 訳
音楽学者でありミュージシャンでもある著者が言うように、ただ音楽の構造を分析するという方法では、その音楽自体が依拠する文化的背景や、それが意味する社会的背景が見えてこない。しかも、ジャケットのあらゆる細部にまで意味を詰め込んだアートワークや隠喩に満ちた歌詞、ステージにおける意匠(や衣装)などのさまざまな要素が、音楽とともにパッケージ化された音楽では、そうした現象としての作品全体に目を向けることによってしか、その総体を分析することはできないのではないか。しかし、それはプログレッシブ・ロックというジャンルに限った話ではなく、ポピュラー音楽一般にもあてはまりそうだと思うのだが、ことプログレッシブ・ロック研究においては、そうした音楽学と社会学の視点をあわせて導入することが困難な状況があるのだろう。だからこそ、著者は、本書が(それを実現した)「プログレッシブ・ロックについてはじめて包括的にまとめたものであろう」と、宣言するのだ。
特に、そのテクニカルな面に注目されやすいジャンルでもあり、作曲的、構成的、演奏的な技巧について分析することにも意味がなくはないだろうし、それを明示してこその研究書だとの意見もあるだろう。そこで著者は、「譜例を用いない音楽分析」を試みる。たしかに、譜例や数式が出てくると、わけもわからず読み飛ばしてしまうという向きも多いことだろう。(私もそうですが)
本書でも「ポピュラー音楽のスタイルの中で、プログレッシブ・ロックほど多くの論争を招いたものは」ない、と言われているように、プログレッシブ・ロックにはうるさがたのファンが多い、という印象(偏見)がある。しかし、本書の特徴は、60年代後半のサイケデリアから派生し、ジャズやクラシック、現代音楽などとの融合や、シアトリカルなステージングを特徴とする技巧的なロックという、ひとつの傾向ではとらえきれない出自と展開を持ったジャンルを並列にとらえていくものである。固有名だけで文字数を消費してしまう(のでやりませんが)バンドの数々は、ファンでなくても大変興味をそそされるものだろう。