71年、ピンク・フロイドが初めて日本を訪れた。その前年にあたる70年に、彼らはいまなおロック史に輝く名盤『原子心母』(原題:Atom Heart Mother)をリリース。ヒプノシスの〈牛ジャケット〉でも知られる同作を引っさげての初来日公演の舞台が、神奈川県の箱根芦ノ湖畔成蹊学園所有乗風台で開催されたフェス〈箱根アフロディーテ〉である。
日本初の本格的な野外フェスと名高い〈箱根アフロディーテ〉の開催から数えて、2021年は50周年。そんな記念すべき年に、驚くべき映像が届いた。それは、ピンク・フロイドが〈箱根アフロディーテ〉に出演した際のライブ。この映像は、過去にTV放送されたことは知られていたものの、オリジナル・マスターが行方不明で、幻の映像となっていた。しかし数年前、16mmのオリジナル・フィルムを発見。時間をかけてデジタル化/レストアを施し、かつてないほどのクリアな画質で復元された。そして、この度リリースされた日本独自企画CD『 原子心母(箱根アフロディーテ50周年記念盤)』に、Blu-ray Discとして収録。伝説のライブが、ついにお茶の間で楽しめるようになった。
このリリースを記念して、ソニー担当ディレクターの白木哲也氏にインタビュー。フィルムの発見から作品化までの経緯、〈箱根アフロディーテ〉の模様、さらにピンク・フロイドというバンドの本質的な魅力までを、柔和な語り口で教えてくれた。
聖杯のごとき神々しさを放っていたオリジナル・フィルム
――今回のリリースは大変な快挙だと思います。
「そうなんですよ。これまでも日本企画盤っていろいろあったんですけど、ここまでのお宝が発見されて、こういう形で出せるってなかなか……歴史的に見ても、あまりない感じのリリースなんです。そもそも、よく映像が残っていたなと(笑)」
――まずはあらためて、どこがスペシャルなのかを教えていただけますか?
「ピンク・フロイドは、ビートルズやレッド・ツェッペリンと並ぶブリティッシュ・ロックの三大バンドと言ってもいいくらいの存在なんですけど、日本には3回しか来日していないんです。その最初の来日が、71年に開催された〈箱根アフロディーテ〉。その公演は伝説として語られていたんですが、しっかりと検証されてこなかったんです。昔テレビ埼玉が放送した映像があって、それはブートになって世界に流出していたんですけど、かなりノイズの多いものだった。ピンク・フロイドの『The Early Years 1965–1972』※にもテレビ埼玉の映像が収録されていましたね。
それが今回、なんとオリジナル・フィルムで発見されたんです。ここがとにかく最大のポイント。しかも、その過程でこれまで知られていなかった、撮影のいきさつも判明しました。そもそもなんで撮られていたのかも謎だったんですよ。なんと、50年前にピンク・フロイドを好きだった日本のファンの方が、自主的にクルーと仲良くなって、勝手に撮っていたものだったという(笑)。そういうストーリーも解明できたんです」
――2018年2月に、ライブを撮影した山田文明さんと永谷憲明さんにお会いしたところから話が進んだそうですね
「おふたりは、僕がすごくお世話になっている業界の方の同級生だったんです。2014年、バンドが『永遠(TOWA)』を発表したときのインタビューで、ニック・メイスン(Nick Mason)が箱根について語っていて。それを読んだのがきっかけで〈箱根アフロディーテ〉を思い出して、フィルムを探したら出てきたそうです」
――実際に彼らが所蔵していた16mmの入ったフィルム缶を見てどうでした?
「フィルム缶の周りは錆びていて、手書きで〈アフロディーテ〉と書いてあった。その時点でもすごく味がありましたね(笑)。しかも、中のフィルムはものすごく綺麗だったんです。受け取ったときは、もう聖杯を授かったような気分でした(笑)」
――保存状況も抜群だったと。実際に内容をご覧になって、どうでした?
「僕がいちばんびっくりしたのは空の色の綺麗さですね。映像は、夕暮れからはじまって夜になっていくんですけど、その色の移り変わりがすごく印象的でした。あと、ピンク・フロイドの演奏が進んでいくにつれて霧が晴れてきて、ステージに書かれている〈アフロディーテ〉という文字が、くっきりと見えてくるんですよね。テレビ埼玉ヴァージョンでは文字がぼけぼけなんですけど、オリジナル映像でそれがパッと目に入ってきたときの感動はすごかったです。本当に神聖なものを観ているという感じでした」
――今回の映像の鮮明さには、誰もが感動するのではないかと思います。映像のデジタル化、レストア作業はたいへん時間のかかる作業だったかと思うんですけど。
「めちゃくちゃ苦労しましたね。本当に最後の最後までノイズ除去をやっていました。何より幸いだったのは、16mmフィルムで残っていたところでしょうね。VTRとかだと、ここまでの作業はできなかったかもしれない。あと難しいのは音でしたね」
――過去にブートで出回っていた映像では〈アフロディーテ〉のものではない別のライブ音源に差し替えられていたのが、今回の『50周年記念盤』では現地のオーディエンス録音を使っているそうですね。
「フィルムに付いていたものは、オーディエンス・ノイズ――周囲で喋っている音がすごすぎて、バンド側からOKが出なかったんです。そこで、ありとあらゆるいろいろな音源を集めて送ったところ、〈これならいいかも〉と言ってもらえたテイクがあった。それに磨きをかけていった感じです。50年前の日本で演奏したピンク・フロイドの音と映像が一緒になったのも、今回の大きなポイントだと思います」
――音のよさにもびっくりしました。
「一部はソニーが開発した音源分離技術〈AI Sound Separation〉に助けてもらいました。これは複数の音が混ざっている音源から、ピアノのパートだけ綺麗に分離したりできる独自のAI技術で、それを使ってさまざまなノイズを除去し、完璧ではないですが、いい音になった。それでようやくOKをもらえたんです。ピンク・フロイドは本当に音に厳しいので、話の過程で〈音は他の国での演奏に差し替えないといけないね〉という話になったんですけど、〈おいおいそれだけはやめてくれよ〉と粘りました。とにかく他の国での録音は入れたくない――そこはお願いしてやりきりましたね」