Photo by Hibiki Tokiwa

2001年にアルバム『リヴィング・ウィズアウト・フライデイ』(澤野工房)でデビューした山中千尋が、デビュー20周年を迎えた。2021年12月15日にリリースされた『Ballads』は、これまでの作品から自らが選曲したバラード13曲に、ソロピアノによる3曲の新録音を加えたベスト盤だ。このアルバムの話を中心に、デビュー当時のことや、山中千尋のスタンダードソング観などを語ってもらった。

※このインタビューは2022年2月10日に発行される「intoxicate vol.156」に掲載される記事の拡大版です

山中千尋 『Ballads』 ユニバーサル(2021)

 

20年前のデビュー、NYという街、コロナ禍のヘイトクライム

――デビュー20年ということなので、まず20年前に澤野工房からデビューしたいきさつを教えてください。

「初め澤野(由明)さんが目をつけていた女性アーティストがメジャーからデビューすることになって、彼が代わりを探していたんですね。その当時の私のマネージャーが澤野さんのところの石井(広明)さんという方と懇意にしていて、〈こんな人がいるよ〉と、私がボストンのスタジオで録音したテープを石井さんに送ったことがきっかけでした。

それで声をかけていただいたんですけど、ただ、私もジャズを始めて4年しか経っていなかったので、もっと伸びてからレコーディングに臨みたい、と1年半ぐらいそのお申し出を延ばしていたんです。そうしたらもう待てないから録音しよう、と、マネージャーがNYまで来て録音したのが、『リヴィング・ウィズアウト・フライデイ』です」

――そのテープは、どこかに持ち込むための、いわゆるデモテープだったんですか?

「まったく違います。たまたまドラマーの人から、いいスタジオが出来たから試しに録音しないか、と言われて録音したんです。

メジャーの2社からもお誘いがあったんですけど、手紙でお断りしました。それで、澤野さんがお金を出してブルックリンで録音したんですけど、自分ではまったく満足できなくて、澤野さんに〈こんなものしか出来なくてすみません〉と言ったら、〈お金を出したのは僕なんだからそういう風に言っちゃいけないよ、これはいいものだから自信を持ちなさい〉と澤野さんがおっしゃいました。

それをリリースしたら、当時の澤野工房さんの人気もあって評判になり、異例なほど売れた、と聞きました。ジャケットからして、顔も出さずに空想上の鳥が青空に飛んでいる、というイラストなんですけど。で、当時澤野さんにバジェットがなかったので、広告費は出せないということで口コミだけで売れたんです。CDストアを1軒1軒回って、ショップの方が気にいって面出しにしてくださって、ありがたかったと思っています。その方々とは今でもお付き合いが続いています」

――デビューしてから、活動拠点を日本ではなくアメリカにしたのはそういう意思があったんですね?

「はい、やはりいろんな経験を積みたかったので。いろんなミュージシャンのサイドメンをやりましたし、私が所属していた〈シェリー・マリクルとディーバ〉という女性ビッグバンドには、アナット・コーエンとかイングリッド・ジェンセンとか、素晴らしいミュージシャンがいましたし、ニッキ・パロットっていうベーシストもいて、ワールドツアーもやりました。

NYは本当にパワフルな町で、いろんなミュージシャンがいますし、自分らしさを出すにはすごく環境がいい。NYでは誰も人のことを気にしないで、我が道を行くことができます。日本だとつい、あの人がこんな賞を取った、とか、他人を気にしますけど。その環境が自分にとっていいのでは、と思いました」

――コロナ禍以降は日本にいらっしゃるわけですね。

「コロナで2020年の3月に日本に戻ってきて戻れなくなって、1年半以上います。

コロナのこともありますが、ヘイトクライムが酷いんですね。ルームメイトが家に帰ってきたら手紙がドアに貼ってあって、〈今は黙ってやっているけど、いつかお前を叩きのめす〉みたいなことが書いてありました。それで部屋を引っ越すことになって、私の家具もすべて処分して。だから今はブルックリンに家がないので、帰ったらまた探します。それ(ヘイトクライム)は(ドナルド・)トランプ大統領時代の残り火だったり、アジアからコロナが来た、という誤解だったりするんですね。中国人が狙われるんですけど、アメリカ人には中国人と日本人の区別がつかないので。そういうわけで、みなさん大変な日々を送ってらっしゃると思います。地下鉄の中で乱暴に押されたり。

でも、私のピアノはスタジオに置いてありますし、時期が来たらまたNYに戻るつもりです」