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天才ジャズ・ミュージシャン、チェット・ベイカー
その人生から発せられた音楽の魔力とは

 チェット・ベイカーが、かつて過ごしていたというホテルの一室に泊まったことがあります。イタリアのルッカという街で行われた、わたしのトリオがフィーチャーされたジャズフェスティバルに出演した時のこと。

 ルッカはローマから車で二時間くらいの場所で、おとぎ話に出てくるような街並みが際立って美しい街……と書いてみたのですが、イタリアはどこもかしこも風光明媚。きれいとか美しいと平たく言葉にしてしまうと、何も言い得てないような気がしています。ジャズが愛されているイタリアの様々な街に立ち寄り演奏してきましたが、ルッカの景色の美しさは類い稀で、本当に素晴らしかったのです。中世に立てられた街全体の周囲はぐるりと壁にかこまれ、東西南北に見張りをするための塔があり、こじんまりとした建物のあいだを石畳みの細い路地が静脈のようにつたっている。

 チェット・ベイカー・ルームは彼の偉業と音楽、その歴史を後世に伝えるべく、彼が過ごした当時のままになっていて(もちろん掃除はきちんと隅々までしてあります)セピア色に褪せたひだのたっぷりとしたベルベットのカーテンは、もともとは何色だったのかなー?と想像の余地のある微妙な色合いで、やたら広いバスルームのバスタブのそばに、トランペットを抱えてポーズするチェット・ベイカーのポートレイトがあったりして、いまにも彼の鼻歌やひとりごとが耳もとで聞こえてきそうな雰囲気。その影が濃厚すぎて、それはもう、ハードリカーでも飲まないとやってられなくなってしまうくらいのムード満点、誰もいないのに人の気配がするお部屋でした。

 チェット・ベイカーは、特にこの街とこのホテルの部屋を気に入っていたそうで、最愛の女性、サラも伴ってつかの間の時を過ごしたそうです。もちろん、この部屋でお酒を召し上がり、時には強いお薬もやっていたでしょう、その時は。楽しくなるような想像をするのにわたしは必死になるくらい、何か地縛霊的なものをこの部屋に感じてしまったのです(笑)。わたし疲れてると霊感が冴えるんだった、四方の壁にお守りのお札を貼りたい気持ちにさえなりました。

 映画中でも薬を飲むときに「水をいっぱいのめ」とお医者様から指示されるシーンがあるのですが、ルッカのお水をたくさん召し上がっていたら、お酒も薬も必要なかったかも知れないのになあ、などと思ってしまうのでした。ルッカは水源が豊かで、水がとてもおいしかった。水道をひねるだけで、甘く地味溢れる水がほとばしる。あれだけ古い水道管をくぐってきてもぜんぜん関係ないほどに。

 この映画を観はじめてすぐに、あのルッカの部屋を思い出しました。

 「マイ・フーリッシュ・ハート」のカメラワークはチェット・ベイカーの壮絶な人生の最期とはうらはらに、非常に滑らかで柔らかい光を捉えていて、懐かしさや郷愁を覚える温かみの空気感を大きなスクリーンで味わえることは眼福です。「真夜中のカウボーイ」や「タクシー・ドライバー」と言ったニューヨーク・ニューシネマを彷彿とさせるドラマティックなライティングやサイケデリックでありながら穏やかなトーンの色彩美にまず心を奪われることでしょう。

 今でこそアメリカでは、ジャズは学校教育で教えられるものになり、伝統芸能的な地位を確立しましたが、当時は逆差別もあり(いまもままあるといえばあります)、反社会勢力ともジャズはガッチリと結ばれていたのでした。ついでにいえば、女性の地位も権利もないに等しく、自分らしく生きることを許されない男性は、自分の受けた社会の抑圧を、女性をはけ口にしてドメスティック・ヴァイオレンスを行うことも日常茶飯事。社会的にも許されてきました。

 あれだけ歌心のある稀有なソロを繰り出すことのできるチェット・ベイカーも、過酷な運命から自身の肉体も精神も救い出すことができませんでしたが、その代償として彼自身、人類に最高のジャズを贈り物として残していったのです。

 チェット・ベイカーの死の現場にいち早く駆けつけた刑事ルーカスとチェット・ベイカーが時空を超えて出会い、劇中劇のようになっているストーリーも見応えがいっぱいで、あっという間の87分でした。さりげない演出とセリフから時代が変わっていく、変わっていくべきだと示唆する女性の強さをメタファーしていく演出も、フェミニストのわたしには最高にぐっときました。古い時代の象徴としてのチェット・ベイカーの死を目撃したことで、私たちは時代が生まれ変わっていく証人となり、またその責任を負うのではないでしょうか。

 チェット・ベイカーの謎がいっぱいの人生の中で確かなことは、彼の残した録音は、やるせないほどに優しさがあって麗しく、最上のエレガンスにあふれているということ。

 ぜひストーリーのバックに流れる彼の音楽を、大きなスピーカーでお聴きいただきたいと思います。そして、一人のジャズ奏者の人生に思いを馳せ、その音楽の魔力に身を任せてみてください。

 


山中千尋(Chihiro Yamanaka)
ジャズピアニスト。2011年名門Deccaレーベルから全米でアルバムリリース。リンカーンセンター、カーネギーホールなど世界各地で精力的に演奏活動を行う。10月12日高崎芸術劇場 12,13日ブルーノート東京、10月14日名古屋ブルーノート15日富山県新川文化会館25日京都BondsRosary 11月9日彦根市民文化プラザ11月12日―16日までスイス、ベルン公演。詳しくはwww.chihiroyamanaka.com

 


映画「マイ・フーリッシュ・ハート」
監督・脚本:ロルフ・ヴァン・アイク
出演:スティーヴ・ウォール/ハイス・ナハー/レイモンド・ティリー
my-foolish-heart.com/
配給:ブロードメディア・スタジオ(2018年 オランダ 87分  PG12)
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◎11月8日(金)ヒューマントラストシネマ有楽町、新宿武蔵野館ほか順次全国公開