ササミ
Photo by Angela Ricciardi

USインディーシーンで注目されているシンガーソングライターのササミ。彼女が、メタルやインダストリアルに接近した挑戦作『Squeeze』を2022年2月25日(金)にリリースする。一方で今、欧米シーン全体を見渡すと、ササミのようなアジア系/アジア出身の女性シンガーソングライターの活躍が目立っている。そこでこの記事では、ササミの新作と、彼女のように英米やヨーロッパで存在感を放つ才能、その独創性を紹介する。これを機に、彼女たちが自ら語る〈物語〉に注目してもらえたら幸いだ。 *Mikiki編集部


 

アジア系女性は二重に差別されてきた

優秀で勤勉、そして白人社会を脅かさない存在、いわゆる〈モデルマイノリティー〉とみなされる欧米圏のアジア系の人々。だがこのコロナ禍以降、そうした欧米圏におけるアジア人に対する、人種差別にもとづく事件はこれまで以上に後を絶たない。そうした流れに抗い、SNS等における〈#StopAsianHate〉のムーブメントも巻き起こっている昨今だが、こうした欧米圏におけるアジア系住民に対する差別は当然、今に始まったものではない。他の有色人種同様、苛烈な差別を受けてきたことが今このように激化することで、可視化され浮き彫りになってきたのだと言えるだろう。

なかでも、欧米圏におけるアジア系女性は、アジア人として、また女性として、二重に周縁化、あるいは不可視化されてきた存在だ。無口で従順、そんなパブリックイメージが未だ根強いアジア系の女性は、欧米圏において、決して何らかの物語の〈主役〉になることを許されてこなかったと言えるだろう。しかしながら、たとえば有色人種の女性として初のアカデミー監督賞を受賞した「ノマドランド」(2021年)の監督であるクロエ・ジャオがそうであるように、この数年、そんな彼女たちの存在感が増していることには驚くと共に素直に感嘆する。

 

日本の妖怪〈濡女〉をテーマにしたササミのアグレッシブな新作『Squeeze』

ポップミュージックのシーンを見てみると、フィリピン系のオリヴィア・ロドリゴが10代を中心に絶大な支持を集めているのは言わずもがな、やはりアジア系女性のシンガーソングライターたちの躍進には目を見張るものがある。なかでも直近のリリースで興味深いのは、韓国系アメリカ人のササミこと、ササミ・アシュワース(Sasami Ashworth)の新作『Squeeze』だ。

SASAMI 『Squeeze』 Domino/BEAT(2022)

現在はLAを拠点に活動している彼女だが、元はNYの音楽大学で学んでいたクラシック畑の出身で、2019年には前作にあたるデビューアルバム『SASAMI』をリリースしている。前作は、朴訥とした内省的なインディーロックの隠れた良作といった趣きだったのだが、セカンドアルバムとなる今作では一転、硬質でインダストリアルなビートやアグレッシブなメタルサウンドが入り乱れる、文字通り〈破壊的な〉作風を繰り出してきたことに正直かなり驚かされた。1曲目の“Skin A Rat”から速弾きのギターフレーズが飛び交うだけでなく、ドラムにはメガデスのダーク・ヴェルビューレンまでもが参加しマシンガンのようなリズムを叩き込むという、まごうことなきスラッシュメタルが炸裂している。

『Squeeze』収録曲“Skin A Rat”

しかしながら、彼女自身はあえてハードにスクリームするような様子はないところが興味深いところ。むしろ低体温のまま淡々とつぶやくような歌声を聴かせたり、緻密に構成されたハーモニーを乗せたりもしている点から、自身の音楽性自体をガラリと変えたというよりは、自分が今表現すべきことを実現するための形式として、こうしたサウンドを選びとったように思える。実際に彼女自身、メタルはこれまで自分とはかけ離れた音楽だと感じていたとしながらも「周縁化された人たちが共感し、自分の体験やカタルシスの燃料として使えるような音楽を作りたかった」と語っているのも印象的だ。

『Squeeze』収録曲“Say It”

加えて今作の制作にあたって大きく関係したのが、パンデミックの期間を通じて深く触れることとなった自らの家族の歴史なのだという。彼女の祖母は在日韓国人で、母も20代まで日本で暮らしていたのだそう(その後アメリカに移住し、そこでササミが生まれている)。韓国と日本の複雑な歴史や文化を学ぶ中で出会ったのが、今作のテーマとカバーアートになっている〈濡女〉という日本の妖怪だ。諸説あるが一説には、濡女は赤ん坊を道ゆく人に預からせる妖怪なのだそうで、次第にその赤ん坊は石のように重くなっていき、さらに手が離せなくなり、そのうちにその人間を襲うのだという。考えてみればそのモチーフはあたかも、差別や抑圧の重みからの解放とその重みを他の誰かに味わわせる、という意図が込められているようにも思えてくる。そして、そこに攻撃的で暴力的なサウンドをプラスすることでササミは、自分のような社会から周縁化された人々の存在を可視化しようと試みているように感じるのだ。