PLATINUM 900
(左から)西村一彦、坂田直子、飯星裕史

坂田直子、西村一彦、飯星裕史の3人で90年代後半の短期間に活動したバンド、PLATINUM 900。ジャズファンクやレアグルーヴを志向し、当時の潮流にあえて背を向けたかのようなそのサウンドと磨き抜かれた音像、独特の諧謔精神は、シティポップブームの追い風もあり、いまようやく高く評価されつつある。

そんな再評価の高まりを受けてか、2021年に唯一のアルバム『Free (at last)』(99年)がリイシューされた。それに続いて、ついにファーストミニアルバム『プラチナム航空900便』(97年)、セカンドミニアルバム『プラチナム交響曲 第900番「白金」』(98年)、4曲入りEP『Missing Star』(98年)も、メンバー監修のもと、新たにリマスタリングされ再発された。いずれも中古市場で高騰していた幻のレア盤なので、待望の再発と言える。

今回は、3作のリイシューに合わせて、坂田と西村と、流線形のクニモンド瀧口との特別鼎談を企画。以前からDJの現場などでPLATINUM 900の音楽の魅力を広めていた瀧口と、PLATINUM 900の2人が初対面した。話は尽きず、2時間超に及んだ対話のダイジェストをここにお届けしよう。

 

90年代後半、音楽バブル時代の早すぎたバンド

――まず、PLATINUM 900というバンドについてお伺いさせてください。バンドの結成や当時の活動について、改めてお話しいただけますか?

坂田直子(PLATINUM 900)「昔のことすぎて思い出せない……(笑)。私たちが10代だった頃はバンドブームで、みんなバンドをやっていたんですよね。私はベースで、当時は歌っていませんでした。

その後、事務所に所属して活動していたんですけど、友だち経由で(西村)一彦くんのデモテープを聴いて、〈すごくかっこいい!〉って思ったんですよ。それがPLATINUM 900として活動を始めるきっかけでした」

西村一彦(PLATINUM 900)「僕は、ミュージシャンになろうと思ってデモテープを作っていたんだけど、うまくいかなくて、アメリカに行って人生をリセットしようと思っていたんですよね。

でも、当時マネージャーをやってくれていたもっちゃん(坂本圭二郎)が奔走してくれて、僕がアメリカから帰国したら、デモテープがうまいことレコード会社に渡っていたんです。それで、BMGとの契約が決まりました。

その後、〈キーボーディストを入れよう〉ということになって、飯星(裕史)くんが入ったんだよね」

――なるほど。

西村「ただ、当時僕は20代後半になっていたから、若い頃の〈スターになるんだ!〉という勢いが落ち着いちゃっていたんです(笑)。

とはいえ、デビューが決まって、録音は好きだったから楽しかったですね。1枚目(『プラチナム航空900便』)のときは右も左もわからない状態だったから、アレンジャーの中村哲さん(元スペクトラム)がいろいろなことをやってくれました。

PLATINUM 900の録音は、お金をかけた〈大名レコーディング〉でしたよ。毎晩、鰻を食べに行ってたもんね(笑)」

坂田「すごく良いお店で朝まで飲んでたよね。バブルみたいだった」

西村「合宿中も、半分くらいは飲んだり卓球したりで(笑)。有名なマニピュレーターの方を呼んで、何日もかけてハイハットの音だけをいじったり……。めちゃくちゃなことをやっていましたね。BMGの塚田(達也)さんは、上司の方にかなり怒られたらしいです(笑)」

――90年代後半の、音楽業界にお金があった時代らしいエピソードですね。

坂田「今回リマスタリングしたときに、エンジニアの方が〈よくこんなことをしていましたね〉と言っていました」

――それほど豪華な音作りだったと。

西村「特にやりたい放題だったのは、『白金(プラチナム交響曲 第900番「白金」)』のときですよ。ジャケットからしてやりたい放題(笑)」

『プラチナム交響曲 第900番「白金」』ジャケット

坂田「リリース当時、クラシックのところに並べられてたんだって(笑)」

西村「パチもんだってわかりそうだけどね(笑)」

クニモンド瀧口「クラシックのレコードのオマージュをしたあのジャケット、頓知が効いていておもしろいと思います」

――PLATINUM 900の作品って、諧謔や皮肉が効いていますよね。

西村「〈おしゃれだけど、ちょっとかわいい〉〈おもしろかわいい〉みたいなものを目指していたんです」

――〈ダサかっこいい〉を狙っていたと、『Free (at last)』の再発盤のライナーノーツでおっしゃっていましたね。

西村「そうそう! 〈ダサかっこいい〉というのは、哲さんが言ったんです。

哲さんは、いろいろなことをわかってくれていましたね。〈お前らの音楽、CTIみたいだな!〉〈これを聴け!〉なんて言って、パトリース・ラッシェンとかのアルバムをいっぱい貸してくれたり」

――ファーストミニアルバム『白金』の発表後の活動についてはいかがでしょうか?

西村「1枚目の制作中に飯星くんが病気で倒れちゃって、〈もう何もできない〉という感じになっちゃったんですよね

※飯星裕史は2011年に逝去した

坂田「飯星くんは、病院とスタジオを往復しながら作ってたんだよね」

西村「CDのクレジットに病院の名前が書いてあると思いますよ」

坂田「そんな状況のまま、よく4枚も作ったよね」

西村「よくやったと思う」

坂田「一生懸命作ったけど、ぜんぜん売れなかった(笑)!」

西村「飯星くんのことも大きかったけど、〈練習して頑張ろう!〉〈売れよう!〉みたいな気持ちがなかったよね(笑)。

でも、売れようと思ったらダメだからね。売れようとしていなかったからこそ、いままたこうやって評価してもらえているんだと思う」

坂田「私たち、売れるために自分たちを変えなかったからね。PLATINUM 900のような一彦くんが好きな音楽性のバンドは90年代当時、日本にあまりいなかったんだけど」

西村「〈この音楽こそがかっこいいでしょ!〉と思っていたら、海外からブラン・ニュー・ヘヴィーズが出てきて、レニクラ(レニー・クラヴィッツ)が出てきて、さらにディー・ライトが登場して、ショック続きだった」

――そしてジャミロクワイも大ヒットし……。

坂田「やろうとしていた音楽が、時代よりも早かったんだよね」

西村「いろいろなことを言われたけどね」

――〈もっと売れるような音楽を〉と?

西村「そうそう。PLATINUM 900以前の学生時代、他のバンドでレコード会社と話したときはかなり言われたな」