一人の〈女優〉の躍動を介し、かつての香港映画の豊かさを実感できるばかりか、女優とは何か、演技とは何か、といった根源的な問いも喚起される貴重な機会。

2022年12月4日(日)をもって閉館した渋谷東映プラザ内〈渋谷TOEI〉跡地にて、2023年6月16日(金)、新たな映画館〈Bunkamuraル・シネマ 渋谷宮下〉がオープンする。ミニシアターの街・渋谷で30余年培ってきたBunkamuraカラーを携えながら、渋谷駅前・宮下エリアならではの刺激的なエネルギーを吸収し、これからの未来にひらかれた映画館を目指す。そのこけら落としとして、日本初の本格的回顧上映となる〈マギー・チャン レトロスペクティブ〉が開催される。その魅力を、今こそスクリーンでご堪能いただきたい。

 もちろん相手は他ならぬマギー・チャンなのだから、僕らは彼女を〈主演〉にいくつもの魅惑に富んだストーリーを構想することができる。たとえば、ウォン・カーウァイは、デビュー作「いますぐ抱きしめたい」(88)でやや年長の不良男性との出会いをきっかけに恋愛と都会の芳香に引き寄せられることになるヒロインに彼女をキャスティングして以降、「欲望の翼」(90)や「楽園の瑕」(94)でも重要な役割を任せ、ついには彼女なしには成立し得なかっただろう、傑作「花様年華」(00)に到達した。そんなウォン・カーウァイ作品を語るうえで、その名を欠くことのできない女優としてのマギー・チャンは、あの清楚な印象を伴う美貌の下に、どこか洗練さの手前にあるかのような不器用さや純粋さを秘め、未知の領域への跳躍の機会を前に揺れ動きながらも、その危うい状況を一気に打開する決断や行動のプロセスをもって――たとえそれが〈失敗〉に終わるとしても――僕らを魅了したのだった。

「欲望の翼」
©1990 East Asia Films Distribution Limited and eSun.com Limited. All Rights Reserved.
「楽園の瑕」
©1994, 2008 Block 2 Pictures Inc. All Rights Reserved.
「花様年華」
© 2000 BLOCK 2 PICTURES INC. © 2019 JET TONE CONTENTS INC.ALL RIGHTS RESERVED
「ロアン・リンユイ/阮玲玉」
©2010 Fortune Star Media Limited. All Rights Reserved.

 しかし、ここでは彼女の魅惑を別の角度から浮かび上がらせたい。それは、端的にいって、女優が女優を演じることの魅惑、そんなやはり危険でもある領域に彼女が挑む際に生じる魅惑についてである。そこで、「ロアン・リンユイ 阮玲玉」(91、以下、「ロアン~」)に立ち戻ることにしよう。同作でマギー・チャンは、まさに〈女優が女優を演じる〉を実践し、第42回ベルリン国際映画祭の女優賞に輝いた。ロアン・リンユイ(阮玲玉、1910‐1935)とは、サイレント映画時代の中国で活躍した実在の女優で、その全盛期に男性関係のもつれによるスキャンダルが原因で自ら命を絶った〈悲劇のヒロイン〉である。同作は単なる伝記映画ではない。この代表作でのスタンリー・クワン監督は実験的なストーリーテリングを選択しており、当時の香港映画がスターシステムによる娯楽映画やアクション映画の質の高さ伴う量産だけにとどまらず、大胆な実験精神をも発揮され得る豊かな環境にあった事実を実感させる。

 1930年代の上海を主な舞台に往年の名女優の映画仲間との交流や異性関係などを想像も交えて再現するドラマを軸に、ヒロインを演じるマギー・チャンをはじめとして、その関係者を演じるキャスト陣へのインタビュー、生前のリンユイ本人を知る人物や研究者による証言などのドキュメンタリー的な要素をコラージュするかたちで同作は進行する。映画の冒頭、当初は端役でさまざまな役柄を演じたが、映画会社の移籍などをきっかけに当時の中国映画界を代表する女優に成長したという、自身が演じる女優の来歴を知らされ、まるで私のようね……とマギー・チャンは明るく笑う。当時の中国映画界の中心にして、外国人租界の存在などの影響できわめてモダンで西洋風の都市だった1930年代上海の面影が独創的に再現され、サイレント映画独特のメイクで顔を覆う俳優たちによるパントマイムめいた撮影現場の描写も興味深い。プリントが現存するリンユイの出演作も効果的に引用される。僕らはフィルム上では今も生きるリンユイの姿を、その女優を演じるマギー・チャンの演技に重ね合わせるように垣間見ることができ、まるで二人の中国人女優が時空を超えて競演するかのようだ。