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©あみだむく/白泉社

 わたしはピアノ弾きとして寅雄を羨ましく、嫉妬を覚える。音楽にこんなふうに無垢に向き合えたらどんなに楽しいだろう。ピア二ストになるための現実が寅雄に立ちはだかる。音大に忍び込んだ寅雄は音大教授で天才ピアニスト、そして変わり者の兎山助六と出会い、さらに彼の教え子たちの演奏にショックを受ける。そんなこと音大ではザラだ。現実は甘くないよ、と寅雄に言いたくなる。音大生たちは自分と他人を比べるのが当たり前。結果、己の実力に自分を見失う、心を病む、そんなこともおくびにも出さずに、虚勢をはるしかない痛ましさと共に音楽に挑んでいく。それに比べて「俺はまだ全然弾けない」「俺は何も知らない」「俺には技術も何にもない」と堂々と言う寅雄。「俺はまだまだ上に行ける」。どこまでやれるか、見せていただこうじゃないの。ピアノのストーリーを意地悪くチェックする人の多くは、ピアノ弾きかもしれない。なんといっても日本は、世界にも類を見ないピアノ王国である。寅雄の一挙手一投足が、ピアノ・ストーリー・ファンの読者にいらだちを与える。「ありえない、痛い人」。

 話は変わるが、寅雄の演奏のように、未熟で拙い演奏なのに聴かされてしまった、つまりなんらかの感動を覚えてしまったことは多い。たとえばYouTubeに上がっている工事現場で働いているという男性が、弾くピアノだ。楽譜が読めないので、光る鍵盤でショパンのノクターンを学んだそうだ。なんと1年後にはノクターンが弾けるようになっていた。彼の素朴なショパンに賞賛のコメントが寄せられている。ぜひご覧になって欲しい。聴かされてしまう意味が分かるから。

 コロナ禍以前にバルセロナで「マリア·カナルス国際音楽コンクール」の予選を聴きに行った。世界で最も権威のあるコンクールの一つだ。一次予選の顔ぶれは何とも個性的で、聴かせられてしまった演奏が多かった。ところが、そういう演奏者たちは殆どが落選した。コンクールを勝ち抜いた演奏者の輝くような演奏は本当に素晴らしい。多大なリスペクトを捧げたいと思う。でもあの聴かせられてしまったピアニストたちが気になって仕方ない。

 いつのまにか、わたしは寅雄から目が離せなくなっている。音楽は人の心を動かして、初めて音楽になっていく、それを寅雄はすでに知っているのだ。物語は辰本瑠音というコンクールを総ナメにする天才少女も現れ、「ラプソディ・イン・レッド」は狂詩曲を紡いでいく。ネタバレも含んでしまったが、細かいニュアンスや迫力は実際読むことでしか分からない。音楽の本質をついた大きなスケールの作品を堪能してほしい。

 


寄稿者プロフィール
山中千尋(やまなか・ちひろ)

ピアニスト/作編曲家。米メジャー・レーベルのデッカ・レコードとも契約を果たし、全米デビュー。米NBCラジオ、カーネギーホール、ケネディーセンターで自己のトリオで出演する他、米リンカーンセンターでのジェームス・P・ジョンソン・トリビュート記念コンサートにイーサン・アイバーソン、エリック・ルイスらと ともにソロで出演。またラプソディー・イン・ブルーを東京都交響楽団、NHK交響楽団、群馬交響楽団、新日本フィルハーモニー交響楽団と共演し絶賛を得る。2020新年にはニューヨークアポロシアターでの公演もソールド・アウト。今まさに活動の絶頂期を迎えているピアニスト。著書に「ジャズのある風景」(2013年)晶文社がある。