「〈俺のスタイルはこう。だからこういうふうにやる〉というコンセプトが明快。しかも、そうであるにもかかわらず、絶えずリスナーのことを考えている。その姿勢が素晴らしい」。
日本ジャズのプラットフォーム的レーベル〈Days of Delight〉のファウンダー&プロデューサーである平野暁臣が共感してやまないひとりが、中林薫平だ。
81年、兵庫県生まれ。高校入学と同時に甲南高校ブラスアンサンブル部でベースを始め、2003年の守口・門真ジャズコンテストではグランプリ、ベストプレイヤー賞を受賞。プロ入り以降、創造力に富むベースプレイと作曲で、今世紀の我が国のジャズシーンを牽引するひとりとなって久しい。
2022年には〈中林薫平オーケストラ〉名義による『Circles』を発表したが、このたび登場する『Live at “COTTON CLUB”』は、東京・丸の内のCOTTON CLUBで行われた同作のリリース公演を収めたもの。多彩なメロディセンス、ハーモニー、リズムが渦巻くオーケストラの音作りに、ライブならではのエキサイトメントが加味された内容となっている。
リリースを控えた中林薫平に、音楽との出会い、レジェンドミュージシャンたちとの経験、オーケストラ結成のきっかけ、作編曲へのこだわり等を、ざっくばらんに語ってもらった。
野球少年からビッグバンドのベーシストへ
――まずバイオグラフィ的なことからうかがいたいのですが、最初に意識した音楽は何ですか?
「ピアノを教えていた母親がよくオーケストラのCDをかけていたので、最初に出会ったのはクラシックですが、もちろんヒット曲も聴いていて、初めて自分の小遣いで買ったアルバムはB’zの『RUN』(92年)でした」
――中学時代は野球に打ち込んだともうかがっています。90年代半ばといえば、イチローがすごく活躍していた頃ですね。
「まさにその時代です。実家から車で15分ほどのところにグリーンスタジアム神戸(現・ほっともっとフィールド神戸)があったので、よく観に行きました。たくさん試合を観て、いっぱい感動したこともあって、中学の3年間は野球に打ち込んだんです」
――ジャズへの関心が芽生えたのはいつ頃ですか?
「高校にあがってから。甲南高校の〈ブラスアンサンブル〉という名前の部に入ったんですが、やっていたのはビッグバンドジャズで、カウント・ベイシーなんかを演奏していました。たまたまベースが欠員だっだというだけの理由で、エレキベースを渡されまして(笑)。
1年ぐらい経ったときに、1学年上の先輩だった黒田(卓也)さんに〈ジャズをやってるんだから、アップライトを弾けよ〉と言われて、音楽室に転がっていたコントラバスを渡されたんです。最初は〈コレ、どうやって弾くんですか?〉という感じで……」
――横の動きをするエレクトリックベースとは異なる、縦の動きのアコースティックベースにはどうやって馴染んでいきましたか?
「最初はもう、ぜんぜんでしたね。見たこともなかったし、教えてくれる人もいなかったから、見よう見まねで始めたんですが、どうやって弾けばいいのかまったくわからない。なんでこんなに小指が痛いんだろうと不思議に思っていたら、指の使い方がメチャクチャだったことがわかったりして(笑)」
黒田卓也が現代ジャズの水先案内人
――そしてどんどんジャズやアコースティックベースの世界に入り込んでいくわけですね。
「最初はクリフォード・ブラウンとか、アート・ブレイキー&ジャズ・メッセンジャーズなどのオーソドックスなジャズを聴いていて、そのうちに自分でもCDを買うようになりました。
その頃、黒田さんが〈コレを聴いてみろ〉といろんなCDを貸してくれたんですが、ある時〈すごいのがおる〉と勧めてくれたのが、クリスチャン・マクブライドの『Gettin’ To It』(95年)。高校1年の頃だったかな。それまでポール・チェンバースとかサム・ジョーンズのような1950年代、60年代のベーシストを愛聴していたときに、クリスチャンは〈まさにリアルタイムのジャズベースだ!〉という感じがして一気に視野が広がった。
以来、いろんな年代、タイプのベーシストを聴くようになりました。黒田さんは、僕にとって水先案内人みたいな人で、本当に感謝しています」
――『Gettin’ To It』は、ロイ・ハーグローヴやジョシュア・レッドマンも参加していて、当時は〈天才少年が集まった作品〉とも言われていたような記憶があります。
「すごいメンバーがすごい演奏をしているのはもちろんだけど、ぼくが一番衝撃を受けたのは、クリスチャンが一人で演奏している“Night Train”でした。もう、本当にビックリした」