『Illmatic』のパンチラインの重層的な奥深さ
――“N.Y. State Of Mind”といえば、〈俺は眠らない、なぜなら眠りは死の従兄弟だから(I never sleep, ‘cause sleep is the cousin of death)〉というヒップホップ史上もっとも有名なパンチラインのひとつと言ってもいいリリックがありますよね。それについてのShotGunDandyさんの解説を読んで、衝撃を受けたんです。ギリシャ神話が元ネタであることなど、三重、四重もの意味がたった1ラインに込められているなんて、と。
「すごいですよね。やっぱり、紐解かないとわからないことがいっぱいあるんです。あのパンチラインを筆頭に、『Illmatic』にはそういうリリックが散りばめられていて。
あのラインは、表面的な意味を理解しただけでも〈かっこいい!〉と感じるのに、さらに4つ、5つの意味を混ぜ込んでいる。そのスキルの高さを知るに至った時の感動も味わえる、本当にてんこ盛りなのが『Illmatic』なんです。だからこそ、みなさんにもリリックの奥深さを知って、衝撃を受けてほしいんですね」
――ShotGunDandyさんが『Illmatic』でしびれるパンチラインは、どれですか?
「〈眠りは死の従兄弟〉ももちろんすごいのですが、“It Ain’t Hard To Tell”の〈地獄でメデューサとモエ・エ・シャンドンを飲んで、彼女にショットガンをする(I drink Moët with Medusa, give her shotguns in Hell)〉というラインも、何重にも意味が込められていて、言葉遊びがすごいですね。
メデューサといえば、見た者を石にしてしまうギリシャ神話の怪物ですが、〈石〉という単語を一切使わずに、〈石〉のイメージを換気させるスキルがすごすぎます。それと、ナズは、〈メデューサとショットガンをするほど顔を近づけて目が合っても、俺は石にならないんだ〉とタフさを誇示してもいる。〈地獄で〉の部分は、もちろん文字どおりの地獄であり、ナズが生きている社会や環境のことであり、かつてのベトナム戦争中のアメリカも示唆されていて、とにかく深いんです※」
――ほかにパンチラインを挙げるとしたら、いかがでしょうか?
「いっぱいありすぎて……(笑)。“Life’s A Bitch”のリリックも深いですよね。ひとつのパンチラインというよりも、リリックの全体的な関係性がすごいんです。客演のAZの冒頭のヴァースでは〈警察に捕まるか、死ぬか〉という絶望的なことが歌われていますが、次のナズはその絶望的な状況から抜け出す希望も歌っている。その陰と陽の対比が、一曲の中で見事な構成になっていると思います」
――おっしゃるとおり、『Illmatic』の特徴は、絶望的なところがあるのと同時に、希望や救済、成功への意志も歌われていることだと思います。〈俺のライムはカプセルがないビタミンみたいなもの(My rhyme is a vitamin held without a capsule)〉という“N.Y. State Of Mind”のラインも象徴的です。
「まさに、みんなそこに心を打たれていると思います。さっき触れた、『Illmatic』がストリートに生きる人たちからリスペクトを受けているのも、その部分なんですよね。ストリートの人々の目線では、〈ナズは俺たちの痛みや絶望をちゃんと理解していながらも、希望を与えてくれる〉と感じるのでしょうね。希望と絶望が見事にマッチしてブレンドされているアルバムだと思います」
――それと、〈タフな俺〉を誇示するのと同時に弱さや欠点も見せるのも、このアルバムの魅力だと思うんです。
「つまり、リアルさですよね。〈Keep it real〉とよく言われますが、ナズはそれを体現しています。特に当時は、〈俺こそが最強だ!〉と歌うラッパーたちが多かった時期です。自分の弱さを認めて、自分はただの人間だということをしっかりと歌い、しかもかっこよく表現したところが、ストリートだけではなく一般の人たちからも共感を得られた部分なんですよね」
――『Illmatic』のリリース当時、ナズは20歳で、リリックを書いていたのは10代でした。それでも、聴き手が年齢を重ねるごとに深みや重みが変わったり増したりしていくので、何度聴いても発見があると思うんです。
「まちがいないですね。こんなものを18、19歳で書かれたら、もうすごすぎませんか?って(笑)。なので、日本でもナズのようなリリックが書けるラッパーが出てきてほしいなっていう、わがままな思いがありますね」