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ドレイクへのディス曲“Not Like Us”は重要なアンセムとなった

ステージセットは変則的に変化し、バックダンサーも豊かに、ゴージャスに揃えている。ケンドリック自身も絶えず動き続け、ストーリーが止まることはない。例えば、“man at the garden”では街灯が用意され、その灯のもとに人々が集い、一転してムードを変えるような落ち着いた演出がなされている。

ちなみに、今回のイベントの前に公開されたティモシー・シャラメとのインタビュー動画で、ケンドリックはこの曲を自身のお気に入りとして挙げ、最もスラスラと歌詞が書けた曲だと発言しているのは興味深い。なぜならこの曲は、アルバム『GNX』の中でも彼らしい内省のテーマや成功、そして人種差別の話題などを繋げた、パーソナルでラディカル、かつ複雑なテーマを扱った曲だからだ。このエピソードも、今回のパフォーマンスと同様に、ケンドリックのアーティストとしての性質をよく表しているように思える。

一方で、“luther”や“All The Star”のようなバラード調の楽曲に満足したアンクル・サムの顔を引きつらせ、退場させる“Not Like Us”のパフォーマンスはやはり一際印象に残る。

実は、ケンドリック・ラマーによる同曲の印象的なパフォーマンスは昨年6月にも行われている。ロサンゼルスで開催されたライブイベント〈The Pop Out: Ken & Friends〉は、“Not Like Us”のテーマや功績、そして楽曲が携えるコンテクストを強固にするような一幕だった。西海岸の連帯――そのメッセージを力強く打ち出したことによって、この楽曲が単なるドレイクへのディストラックではなく、フッドミュージックとしてのヒップホップの側面を象徴する、重要なアンセムであることを証明した(付け加えておくと、その後ロサンゼルスは悲劇的な山火事に見舞われ、街の連帯、サポートのリアリティが人々の間でさらに高まった)。

しかし、ハーフタイムショーはショービジネスでもあって、この一大イベントから産業の存在や資本主義を切り離すことはとてもできない。今年も数々の映画の予告編や豪華なコマーシャルが流され、視聴者という数字を獲得していく。そう、ケンドリック・ラマーの存在はそういうものから決して切り離されないが、それと屈託なきアティチュードが両立できるものであることを証明し、しかも全てを高いレベルで成し遂げてしまっていることこそが、彼のすごいところなのではないだろうか。

“Not Like Us”を披露することは、進行役のアンクル・サムのリアクションに見られるように、決して大衆や産業の要請に答えるものではない(もっとも、途中にイントロ部分だけを流して期待を煽るなど、クライマックスに向けた抜け目のない演出もあった)。上述した文脈以前に、この曲はドレイク個人に当てられたディスソングでもあり、〈Say Drake〉や〈A minor〉など彼に対する煽りもしっかりと入れている。さらに、ドレイクの元恋人でテニス選手のセリーナ・ウィリアムズもサプライズゲストとして登場し、楽曲に合わせて軽快に踊る。これらのドレイクへの当て付けは決して行儀の良いものではない。

 

ケンドリック・ラマーが表現するリアルなエンタメ

しかし、ヒップホップを取り巻くファンに行儀を求める者が果たしてどれだけいるだろう。ケンドリック・ラマーは主導権を手放したり魂を売ったりはしないが、紛れもない成功者でもある。言ってしまえば、パフォーマンスでのアンクル・サムとの対立は、彼に多くのスタンダードが存在することの表現なのだ。

音楽はファッションなんかじゃない、音楽は金じゃないとただ言うのは簡単だが、ケンドリック・ラマーは今回のステージでそれらのどの側面も切り離さずに、それよりも価値があるものへと昇華した。全てがごちゃ混ぜで、どうしようもなくビジネスであり、社会と関係するものでもありながら、パーソナルなものでもある。一人の視聴者というただの数字として数えられてしまうかもしれないような、テレビを消さずに見ていた誰かの心を動かすような力を彼は持っている。そういう生々しさと切り離せないものがエンターテインメントなのだと、ケンドリックはパフォーマンスを通じて訴えていたのかもしれない。

ケンドリック・ラマーの今回のパフォーマンスは、彼自身だけではなく、エンターテインメントがリアルであることの、何よりもの証明なのだ。