
©Rüdiger Scheidges / ECM Records
ラウンドテーブル――ミュンヘンの美術館Haus der Kunstで開催された展覧会〈ECM - A Cultural Archeology〉(2012年11月25日-2013年2月10日)のために編纂され出版された、カタログに収録された鼎談の全訳
■登壇者略歴
オクウィ・エンヴェゾー(Okwui Enwezor):美術評論家、このカタログ「ECM - A Cultural Archeology」の編集者の一人。キュレーターで、この展覧会が開催された美術館ハウス・デア・クンストの当時のディレクター。この展覧会のキュレーターの一人。
マンフレート・アイヒャー(Manfred Eicher):ECMの創業者&プロデューサー。
スティーヴ・レイク(Steve Lake):ECMのプロデューサー。スタッフ・ライターとしてプレス・リリースやライナーノーツも手がけ、2007年には「The Music Of ECM」を出版した。
カール・リッツペガウス(Karl Lippegaus):17歳でラジオ番組を担当し、以来番組制作に携わる。ジャーナリストとしても活動し、ジョン・コルトレーンの評伝の他、著作も多数。スティーヴ・レイクと、音楽評論家でありECM New Seriesに数多くのライナーノーツを寄稿するポール・グリフィスが編集した「The Music Of ECM」にも寄稿する。
マーカス・ミュラー(Markus Muller):このカタログの編集者の一人で展覧会のキュレーターの一人。世界中の美術館などのコンサルタント業務を行うビュロー・ミュラーの創設者、ディレクター。ドイツの音楽誌「Jazzthetik」の編集者。
オクウィ・エンヴェゾー「我々がコンテンポラリー・アートの理論、もしくはその定義を、考えられるもっとも基本的な方法で提案するなら、コンテンポラリー・アートはまず第一にポスト・メディア(補足:表現媒体を固定しない)だということと、第二に学際的であること、つまりコンテンポラリー・アートには文脈内で様々な学問が有する力を消化、吸収する能力があることを示すことになります。
この方程式の、小さいながら重要な部分を担っているのは、コンテンポラリー・アートとサウンドの、厳密に言えば音楽のことですが、複雑な関係です。1950年代の後半、そして1960年代のフルクサスからハプニングにいたる実験音楽とアートの複雑な関わりは、創造的で重要なプロジェクトを輩出しました。私見ですが、こうしたプロジェクトはコンテンポラリー・ミュージックの発展と交錯するのです。
私は、1960年代後半のECM設立とその形成期について考えながら、もうひとつ、ある事実についても考えました。この時期、コンテンポラリー・アートではさまざまな変化が起きていました。コンセプチュアル・アートの文脈では芸術作品とは何か、再定義が行われ、ミニマリズムの文脈では反復性や連続性に取り組む方法がいくつかの活動で台頭してきました。そしてポスト・コンセプチュアルな実践との関わりの中で、アートが持つ語彙上の、それが何を指し示すのかを問題にする、芸術作品と商品形態に向けた批判がありました。こうした動きのほとんどが1960年代に始まり、ECMの活動が提示する世界観と大変うまく交わり合っていたと思います。
だからこの試み、〈ECM - A Cultural Archeology(ECM - 文化の考古学)〉は、ECMならではの芸術上のプロジェクトを、1960年代のアヴァンギャルドなプロジェクトとして登場したとても実験的な音楽家たちの作品と絡めて検証するだけではなく、このような連続し交錯する出会いを集約し、ECMがその作品群によって実現した過激な成果へと至る、その経緯を明らかにする機会として利用するための試みなのです。
それではマンフレートへのとても単純な質問から始めてみましょう。あなたが1960年代後半にECMを始めた時、ECMは〈Editions of Contemporary Music〉のことだと知られていました。どうしてこの略語にしたのですか」
マンフレート・アイヒャー「ミュンヘン当局の書類を使って申請するには社名が必要なんです。この会社をどんな名称にするかなんて全く考えていませんでしたから、コンテンポラリー・アートやコンテンポラリー・ミュージック、あらゆる新しく作曲されたもの、作曲されていない音楽への私の関心を同時に示す何か偏りのない名前を一晩かけて考えてみました。そして、〈Editions of Contemporary Music〉なら1、2年以上はもつだろうと思いました。45年近くたった今でもとても良い表現だと思います。それにいろんな応用が可能です。後のECM New SeriesやECM Cinemaのように。ECMは私の名前に由来すると考えた人たちがいましたが、それは間違いです」
エンヴェゾー「とても驚いたのですが、前もって事業をどう展開していくのか決めていなかった。ギリギリまで社名もなかった。しかしこの(エディションという)形式を通じてどんな音楽を世に送り出したいのか、それは決まっていたはずです。ECMが制作した音楽とあなたの頭の中にあった音楽のあるべき姿との関係について少し話してもらえますか?」
アイヒャー「共感し、気になるミュージシャンはいましたが、コンセプトといったものはありませんでした。好きな音楽を(他社とは)違う方法で、その〈異なり方〉がどんなものだったとしてもですが、録音することだけを考えていました。
そもそも私にはプロデューサーとして、あるいはエンジニアとしての技術もありませんでした。しかし私は音楽をたくさん聴いていました。たとえばESPというレーベルですが、バーナード・ストールマンというアメリカ人弁護士が運営していて、とてもすばらしいミュージシャンたちを、彼のスタジオだった車庫に連れてくるのです。ですがそこで録音された音楽は、水中で録音されたような響きなんです。彼が録音した音楽は素晴らしいのですが、私が本来そうあるべきだと思うような方法で録音されていなかった。
私は一人の音楽家として音質(tone quality)、響き(sound)、そして音色(tone)、音響(sounds)、重なり(layer)を制作していくことに興味があったので、私たちは違う方法を取るべきだと思いました。そして以前から面識のあったポール・ブレイやロビン・ケニヤッタ、ジム・ナップ、マル・ウォルドロンといった音楽家たちを訪ね、我々と録音しないかと誘いました。そうやって一歩ずつ、ゆっくりですが粘り強く着実に歩みながら、段取りが定まり、当時にはなかった音楽に向けた枠組みを築きました。
たくさんのレーベルがあって、それぞれにプロデューサーがいました。ブルーノート、リヴァーサイドがあったし、ヴァーヴがあり、インパルス!がありました。彼らにしかできないことをやっていた素晴らしいレーベルです。ですがヨーロッパ人として、記譜された音楽(written music)での私の経験と即興音楽の知識を活かして、どう作り上げるのかを模索しながらひとつにまとめて少しは違うものにしたかったのです」
エンヴェゾー「ある意味、あの特別な時代に、どこか別の場所で活動する音楽家たちと、ヨーロッパの伝統と文脈を結びつけることが目標だった?」
アイヒャー「そうです。まず私は以前から知っていたアメリカのミュージシャンたちを招きました。私はときどき彼らと演奏していました。レオ・スミス、マリオン・ブラウン、ポール・ブレイがそうですが、彼らを招いてECMの録音を行ったり、マイルス・デイヴィスと演奏していたチック・コリアやキース・ジャレットといったヨーロッパでのコンサートを見て知っていたミュージシャンにも連絡しました。
それからしばらく経って、〈マンフレートとやってみようじゃないか〉と受け入れてくれたのです。そんな風にレコーディングして、彼らが気に入り、我々も気に入ったんです。つまり、これが私たちのコンセプトというわけです」
エンヴェゾー「ある意味、自由でオープンなディスカッションの場ですから、マンフレートに質問を投げかけたり、議論して掘り下げてみたいと感じたら、本当にどなたでも、いつでも参加していただいて結構なんですよ」
カール・リッツペガウス「マンフレートがESPに言及したのはとても面白いことだと思う。1964年以降、ESPが突然始めたことは本当に刺激的だった。でも彼が指摘したように音楽はまるで水中から聞こえてくるみたいに録音されていた。ミュージシャンたちが演奏したスタジオで響いていた全てのサウンド、その細部全てが聞こえているわけではなかった。狭く、安普請のスタジオだった。
マンフレートは、細部にまで行き届いたもっとクリアなサウンド、もっと透明なサウンドを生み出した。まるで3Dで音楽を聴いているようだった。今なら〈ドルビー・デジタル・サウンド〉とでも言うんだろうけれど――良い映画館に行くとね。突然小さな編成のグループがオーケストラのように響くのを耳にする。ドラムが聞こえるけれど、それ以外にもそこで起きていること全てが聞こえる。つまりポール・モチアンの演奏も含めてね。ESPのような(演奏全体が)とても矮小化された音像を聴いているわけじゃない。それはとても衝撃的だったと思う」
エンヴェゾー「つまりそれがあなたにとっての音楽の空間的経験というような考え……」
リッツペガウス「空間を探査することかな」
エンヴェゾー「……録音されたサウンドを聴く経験という点では、非常に新しいことだった」
リッツペガウス「間違いないね」
エンヴェゾー「マーカス、君はどう?」
マーカス・ミュラー「特にESP、それと類似するケースでは、実際には録音することに関して経済的問題があっただろうし、レコーディング・セッション自体を実際にどうやって組むのか、自身で学ばなければならなかったはずだ……。
さてECMのことだけど、最初の頃に面白いと思ったのはマル・ウォルドロンが録音した『Free At Last』(1969年)の日本での成功がとても重要だったということ。最初の1、2年目には、計画のようなものがあったのだろうか? 最初の頃、すでにレコーディングされたものをECMは2枚出していましたね? 一つ思いつくのがポール・ブレイとゲイリー・ピーコックのもの。これはECM設立以前の録音だった。
他には、これはヤン・ガルバレクが教えてくれた有名な逸話だが、君が彼と初めて連絡を取った時、もう二度と連絡は来ないだろうと彼は思った。なぜなら彼の言葉を借りると、ちょっとこんな感じだったらしいから。〈電話しないでね、こっちから連絡するから〉。だから、あなたから連絡が来た時、彼は尋ねた。彼が持っていたテープを出すことに興味あるかってね。そうしたら即座にノーって答えた。そうじゃなくて彼と新たにレコーディングしたいと伝えた。そして、それがオスロのヤン・エリク・コングスハウグ(エンジニア)との最初の出会いに繋がっていく。
つまり、ブレイ=ピーコックのアルバムと、あなた自身がレコーディングする次のステップとなったガルバレクの場合の違いって何だったのだろう?」
アイヒャー「私がヤン・ガルバレクと会ったのは1968年のボローニャのフェスティヴァルで、彼はジョージ・ラッセルのグループで演奏していました。劇場周辺を散策していたのですが、地下室の方から面白い音が聞こえてきたんです。その方角へ向かうとアラン・ドロン風の人物がテナー・サックスを手に立っていました。彼はジョージ・ラッセルと演奏していて、リハーサルの最中で、しかもテリエ・リピダルもいました。ヤン・クリステンセンもいて、大きな編成のアンサンブルでしたが、彼らはそのバンドに所属していた。するとヤンが〈君はレコード会社を始めたいんだってね〉と声をかけてきたのです。私は〈いや、まだこれからなんだ〉と答えました。しかし彼は〈そういえば、(録音した)テープがあるんだ。買い取らないか?〉と聞いてきたのです。そのテープというのは彼の新しいカルテットを録音したものでした。〈いや、それは必要ない。レコード会社を始めたら、こちらから連絡を入れるよ。そしたらレコーディングしよう〉と伝えました。
そして、それから1年が経過して、私は彼にくだけた英語で手紙を書いて〈ヤン、オスロに行ってレコーディングしたいんだ〉と伝えたんです。すると〈わかった、僕が録音の環境を手配しておく〉と返事が来ました。その場所はオスロの郊外にあるソニャ・ヘニエ博物館(現在のヘニー・オンスタッド・センター)の中にありました。ビョナール・アンドルセンがエンジニアでした。とても上手いベース・プレイヤーでしたし、おそらくサウンド・エンジニアとしても優秀でしたが、残響が深いこの場所向きではありませんでした。真夜中でしたが、セッションを止めて、どこか別の場所でやろうと私は言いました。
それでアルリド(・アンデルセン)がヤン・エリク・コングスハウグに連絡したのです。彼は若いエンジニアで、アルネ・ベンディクセン・スタジオで仕事を始めたばかりでした。我々はその日のうちにスタジオへ向かいました。そして『Afric Pepperbird』(1970年)を録音しましたが、グループでさえ聴いたことのなかった音楽とサウンドを既に試して準備はできていましたから、音質としても非常に素晴らしい仕上がりになりました。本当に良い経験でした。私は意気揚々として、5本のマルチ・トラック・テープを抱えてミュンヘンに戻りました。
すでに私の手元にはポール・ブレイ、ゲイリー・ピーコックとポール・モチアンのテープがありました。このテープは未発売のものであまり良い音質ではありませんでした。音楽は気に入っていましたが、音質には不満がありました。そこでシュトゥットガルトにあるバウアー・スタジオに出向いて、当時のエンジニア、クルト・ラップとこのテープのリミックスと曲順の編集を行いました。ポールはこの作業に同意し、結果を気に入っていました。
そして、このレコードはとてもよいレヴューに恵まれました。その中には『メロディー・メイカー』誌のリチャード・ウィリアムスのものもあって、彼はこの録音を激賞してくれました。とても喜ばしいと同時に、驚いたのはテープにほんの少し手を加えただけなのに、こんなに反響があったことです。
それからガルバレクの『Afric Pepperbird』が出て、突然たくさんの人たちがECMのレコーディングの質について語り始めました。特別な音質に関心を向わせることは、一番の狙いではありませんでした。私たちの狙いは新しいタイプの音楽を紹介することでした。つまりは音楽が注目されて、世界に羽ばたき、たくさんの人のもとに届いて、我々はいくつかの高評価を得ました。
我々には事業計画はありませんでしたが、シェフネル氏のジャズ・バイ・ポスト(JAPO)の流通を利用していました。これはミュンヘン・パージング駅にある通信販売のサービスで、カール・エッガーとマンフレート・シェフネルが設立しましたが、現在のAmazonのようなものでした。『Free At Last』を制作して、このレコードをJAPOを使って発送していました。
若い頃はフリーランスとしてミュンヘンのさまざまな出版会社で働いていましたので、いろいろと接点がありました。ウォルドロンのテープを日本の企業家である上原氏に送りましたが、彼はこういうタイプの音楽の知識はありませんでした。しかし人を説得する力はありました。〈これを聴きなさい〉だとか、〈これは要チェック〉だとか。そうやって誰かがこのテープを買ってこう言ってきたのです。〈(契約の)前金を支払うけれど、これで十分だろうか〉と。オファーは日本のRCAからテレックスで送信されてきました。一晩考えて、〈いいのですが、あと5,000マルクお願いできますか〉と返信しました。彼らは〈なるほど、そこそこするね〉と言ってきました。
そうやって『Free At Last』は、自由に世界を駆け巡ったのです。そして、この前金をチック・コリアの『Return To Forever』(1972年)の制作費の一部に充てました。事業計画なしで物事は正しい方向に向かって動き始めました」
エンヴェゾー「つまり、事業計画は無かったけれど、既存の基盤(structure)があった。JAPOは流通基盤だった」
アイヒャー「基盤と方向性はありました」
エンヴェゾー「スティーヴ、あなたはECM、そしてマンフレートともとても長い付き合いです。ですがその付き合いが始まる以前は、ECMの音楽の聴き手だったし、その評論家だった。マンフレートやカール、それにマークスたちが指摘したことについて、レーベルでの経験を振り返って、思い出すことはありますか。たとえばECMが録音したものを聴いた時、カールが説明してくれたような何か特別な空間的な質を感じましたか?」
スティーヴ・レイク「ええ、ライターになる以前から、レコードを買い集めていた子供の頃、すでに感じていました。たとえば選りすぐりのフランスのレーベルのアート・アンサンブル・オブ・シカゴのものならなんでも買っていました。それをつぶさにマリオン・ブラウンの『Afternoon Of A Georgia Faun』(1971年)や、ECMの他のアルバムと比較しました。確かに、音楽が広がる空間的な文脈に気づき、それは(音楽の)違った聴き方に関係があるように思いました。この音楽の広がりある空間のコンテクストは即座に私を圧倒しました。
それから時を経て、これは、このレーベルが他とはまったく異なる方法でやっていることだということが明らかになってきました。カールが指摘したように、澄みきった水を覗くように制作物を覗き込むような感覚があるし、異なる複数の線の動きを見ているような、それは音楽の新鮮な経験だったと思います」
エンヴェゾー「マンフレート、興味深いと思うのは、事業計画はなかったけれど誰を録音したいのかはっきりわかっていたというあなたの発言です。それが計画だった。録音したい音楽家たちに関して、あなたが設定した基準とはどんなものだったんですか? その基準はどうなりましたか?」
アイヒャー「それは気に留めていた音楽や人への共感だったと思います。彼らは私にとって数少ない大変重要な人たちでしたし、金銭の裏付けもないまま、私は彼らと連絡を取っていました。まず連絡して話し合い、話し合いを通じて互いに共感し合い、それから私はいろいろな友人や、実現に向けて手助けしてくれる人たちを訪ねました。
レコーディングを終えて、私たちはどうやって世に出すのかを考え始めました。1960年代の終わり頃、いろんな人たちが〈ジャズは終わった〉と口にしていました。でも我々はこの音楽に違う方法で取り組み、異なる装いで出すべきだと感じていました」
エンヴェゾー「あまりビジネスのことに時間を費やしたくありません。アーティスティックなことに目を向けようと思います」
ミュラー「サウンドがとても重要だったということに異議を唱えてみましょう……。確かに非常に重要な要因ではありますが、私にとって最重要ではなかった。『ジャズ・フォーラム』というポーランドの雑誌がECMを初めて取り上げたのは1971年の秋冬号だったはずですが、最初の15タイトルをまとめて紹介していました。『ジャズ・フォーラム』の記事は、15タイトルの芸術的な質とこうしたレコーディングが提示する音楽の多様性について、このレーベルは新鮮で、将来性があり音楽の質は世界中の評論家から歓迎されたとして、うまく総括していたと本当にそう思います。そう、だからサウンドは素晴らしかったし、ESPサウンドとは決定的に違っていて、ドイツ・グラモフォンや他のクラシックの録音と肩を並べていた。
だけど、そもそもアメリカやヨーロッパの最高の人たちを集め、彼らを説得し、たとえばチック・コリアの最初のピアノ・ソロ『Piano Improvisation Vol. 1』(1971年)のようなアルバム制作ができたという事実に私は眩暈がします。会社は成長して、こうした音楽家たちとの人間関係はどうなっていったのでしょう? こうした人たちを集めて再三レコーディングするという戦略はどういうものだったのか? 音楽家たちの多く、たとえばキース・ジャレットとヤン・ガルバレクというもっともよく知られた2つの例がありますが、今でもあなたとレコーディングしている。こんなに長年続くコラボレーションについて、具体的に語ってもらえないだろうか」
アイヒャー「私が言葉にするのは難しいのですが、根底にあるのは、お互いの信頼と尊敬です。お金が問題になったことはなかったと思います。互いに芸術的な方向性について議論しました。
そして噂が広がっていきました。ここにこんなプロデューサーがいて、何かこれまでとは違うことをやろうとしている。音楽の信頼の輪が広がりました。だから契約書は必要ありませんでした」
リッツペガウス「まあ振り返ってECMはこんな奴、こんな人、そしてこんなアーティストとたくさん録音したって言うのはいつも簡単だ。だけど私を驚かせたのはマンフレートのヴィジョンだった。実際に事が動き出して、ECMに気がついたのは1971年か1972年、初めてラジオ番組を担当した時だった」
エンヴェゾー「当時あなたは何歳でした?」
リッツペガウス「17歳だった。40年前で、番組は新しい聴衆に向けて17、18歳の人が関心を持たなかった音楽への扉を開いた。1970年にどうすれば2枚組だったマイルス・デイヴィスの、コロムビア・レコードの『Bitches Brew』が突然25万枚も売れるんだい。奇跡だよ。人々が〈ジャズ〉という言葉で連想するようなジャズではなかった。まったくそんなものじゃなかった。何かとても近未来的で、とても新しい何かだった。
私はスティーヴのECMについての素晴らしい本『Horizons Touched: The Music Of ECM』(2007年)の付録を調べたんだ。こんな本を出版したことがあるレコード会社が他にあるとは思えない。遂にすべてのECMの制作物の録音の日付が明らかになった。発売の日付ではなくて、録音の日付だよ。つまりマンフレートがラルフ・タウナーと初めて録音したのはいつだったのか、最初のヤン・ガルバレクの録音がいつだったのかがわかる。
ずいぶん長い道のりを遡ることになるけれど、振り返って彼らはスターだと指摘するのは簡単だ。しかし当時の彼らはスターじゃなかったし、ほとんど知られていなかった。マンフレートがラルフ・タウナーの演奏を耳にしたのはウエザー・リポートの“The Moors”(『I Sing Body Electric』、1972年)だったと思う。この曲でタウナーは、イントロで演奏しているだけなんだ。ほんの2分間、12弦ギターをね。それを聴いて、マンフレートはECMで彼のアルバムを今日に至るまで25枚も制作している」
出典:ECM - A Cultural Archaeology
(Part 2につづく)
EXHIBITION INFORMATION
Ambience of ECM

日程:2025年5月8日(木)~2025年5月11日(日)
時間:15:00~18:00
入場料:無料(要予約)
予約はPeatix特設ページにて受付
https://ambienceofecm2.peatix.com/view
会場:京都新聞社大原山荘(京都府京都市左京区大原上野町238)
注意事項:館内では一部裸足となるプログラムがございます。靴下等脱ぎやすいお履物でお越しください。
主催:東邦レオ株式会社
企画:Rika Ishii/Masaaki Hara/Yuki Tamai
ライブ:岸田繁アンバサード・ストリングス
選曲:岸田繁/三浦透子/岡田拓郎/SHeLTeR ECM FIELD (Yoshio + Keisei)/原雅明
協力:ユニバーサルミュージック合同会社/Audio-Technica/株式会社ジェネレックジャパン/Qobuz
企画協力:dublab.jp/epigram inc.
■プレイリスト情報
selected by 岸田繁 - Ambience of ECM
https://play.qobuz.com/playlist/26925651
selected by 三浦透子 - Ambience of ECM
https://play.qobuz.com/playlist/26925617
selected by 岡田拓郎 - Ambience of ECM
https://play.qobuz.com/playlist/26755879
selected by SHeLTeR ECM FIELD (Yoshio + Keisei) - Ambience of ECM
https://play.qobuz.com/playlist/26715607
selected by 原雅明 - Ambience of ECM
https://play.qobuz.com/playlist/26755947