
©Robert Masotti
(Part 3からつづく)
マーカス・ミュラー「マンフレート、君が避けようとする問題に戻りたいな。それはプロデューサーの哲学のことについて。事業計画はなかった。ではマンフレートというプロデューサーを一言で言うと?」
マンフレート・アイヒャー「プロデューサーは不明瞭な用語で、表現媒体が異なれば違った役割を意味します。音楽ではプロデューサーはレコーディングのアーティスティック・ディレクターです。献身、音楽と音楽家たちへの共感が不可欠です。私が理解しているこの役割ですが、プロデューサー自身が音楽家であれば、うまくいくのです。プロデューサーというのは、音楽家たちが理解され尊重されていると感じるように音楽や彼らとの対話を真摯に受け取り、耳を傾けるべきです。おそらく正しいタイミングで人々を集め、彼らと何かを生み出す才能が私にはあるのでしょう。だからそういう意味では、この仕事を映画監督、あるいは演劇監督の役割と比較してみることができる」
ミュラー「信じがたいことに、もう1人ECMのプロデューサーが席についています。マンフレートが会社を形にしたのは明らかですが、スティーヴも2、3の素晴らしいレコーディングに関わっています。どのように関わっていますか?」
スティーヴ・レイク「マンフレートは私がこの分野に取り組むよう勧めてくれました。実際には1970年代のことですが、私がこの会社に初めて加わったとき、当時、我々はJAPOレーベルのもう一つの制作シリーズを模索していました。時々企画を提案してはいましたが大抵、応援してくれました。私と一緒にマンフレートがジョン・スティーヴンス、トレヴァー・ワッツ、ハワード・ライリー、そしてバリー・ガイの最初のセッションに参加したときのことを思い出します。1978年のほずです。初日に私がセッションを始められるように手伝ってくれて、あとは自分でなんとかするよう私1人を残しました。それ以来このアルバム以降、おそらく40枚の制作に関わってきました。
もし私がプロデューサーだったとして、私は自分のことを小文字のpで始まるプロデューサーなのだと思います。ライターとしてやってきた仕事の延長であり、この仕事のことを音楽に対する熱意を表現するもうひとつのメディアだと考えています。レコーディング・スタジオに入って、私は〈建設的な〉批評がどんなものかを理解し始めました。結果が出た後でそれについて考えるというより、ある結果を出そうとしている誰かを手助けすることができる。だから、そう、そういうことをやってきました。
現在も気に入っているいくつかのシリーズがあります。一連のロビン・ウィリアムソン、ジョー・マネリ、ハル・ラッセル、エヴァン・パーカーやロスコー・ミッチェルとか」
カール・リッツペガウス「君はとても強烈な個性の持ち主のエヴァン・パーカーと、一連の制作全てを手掛けた。たとえばエヴァンのような人物や大編成のアンサンブルがあなたの目の前にいたりする場合と、よく知らない音楽家が1人か2人いる場合とでは、どんな風に役割は変わるのだろう?」
レイク「エヴァンとのレコーディングでさえ、全てが大きく異なっていました。何故ならエレクトロ・アコースティックの分野から始めたとき、それは誰にとってもまったく新しい領域でしたし、エレクトリックな手法で処理された即興音楽によるこうしたレコーディングの作業中には、私たちは広い帯域を使って録音し、私はある選択をするために、何時間にも及ぶテープに耳を傾けて、それからどうするのかを議論し、ミックスするのです。
時が経つにつれエヴァンは以前にも増して作曲家としての比重が大きくなり、規模の大きい、さらに大きくなっていくバンドのために曲を書いていました。プロデューサーとしての私の職責はある意味小さくなってゆきましたが、ECMでこの音楽を世に送り出せたことは本当に幸せなことでした」