©Philippe Matsas

古楽界の巨匠ヤーコプス、30年ぶりの来日によせて

 ベルギー第3の都市ヘント(蘭語:仏語ではガン)は複数の言語が入り混じり、芸術の盛んな街。この度30年ぶりに来日するルネ・ヤーコプス(1946-)もこの地に生まれ育ち、大学も同地で卒業。3年間ギリシャ語とラテン語を教えていたのだそう。いわば〈教養人(インテリ)〉として世に出た人物であった。

 しかし、学業の傍らヤーコプスは、地元の大聖堂で少年合唱団員としても活動。声変りの時期でも喉にあまり変化が無かったことで、彼は、当時まだ珍しかったカウンターテナー(男性がファルセットで歌う声種)として歩むことになったという。というわけで、今では大指揮者のヤーコプスだが、80年代初頭までは主に歌手として知られていた。77年に主役を歌った歌劇「アドメート」(ヘンデル)の録音など、今でもよく聴かれる一組だろう。彼のヴィブラートの少ない澄んだ声音は、バロック音楽の復興に大きな役割を果たしたのである。

 しかし、このカウンターテナーという声は、歌手生命がそんなに長くないらしい。だから、音楽に身を捧げたいヤーコプスが、指揮の分野に新境地を見出したことも想像に難くない。その活動はバロック期に留まらず、初期ロマン派のシューベルトの交響曲全集など多岐に及ぶが、オペラでの活躍ぶりはそれにもまして著しく、モンテヴェルディの3大傑作からカヴァッリの名作群――女の子が熊に変えられる“カリスト”のしなやかな名演はぜひ知って欲しい(映像あり!)――そしてヘンデルからモーツァルトに及んでいる。

 それにしても、ヤーコプスが30年間も日本の土を踏んでいなかったとは!作曲家の掘り起こしに精力的な彼は、テレマンやカイザーといったドイツのバロック期の作曲家のオペラも次々と録音し世評を得るものだから、筆者は〈定期的に名前を聞く名匠〉として親しんでいた。でも、やはり、聴けるうちに彼の指揮による生の演奏はぜひ聴いておきたい。この4月の再来日を待ち遠しく思うのである。

 今回ヤーコプスが取り上げる作品は、ヘンデルの〈イタリア語のオラトリオ〉“時と悟りの勝利 Il trionfo del tempo e del disinganno”(1707、ローマにて初演)。オラトリオというと〈聖書のいかつい題材?〉と連想するが、本作のドラマは、美、快楽、悟り、時という寓話的な4人のキャラクターが、〈美は衰える!〉〈それは悩む!〉〈ではどうしよう?〉などと対話しつつ、最終的に〈快楽の空虚さから逃れ、心を神に向ける〉というもの。最近ではオペラとして上演されるケースもあるなど、フランクで親しみやすい一作である。

 演奏者ではまず、ビー・ロック・オーケストラに注目。バロックものを中心にしながら、ダンスや演劇とのコラボレーションも積極的に行うという若手中心のピリオド楽器演奏集団なので、彼らの〈自由な即興性〉をまずはお聴きのがしなく。歌い手では何より、韓国のソプラノ、スンヘ・イムを推挙。すっきりした響きで知性とユーモアを兼ね備える彼女は、ハイドンの喜劇的なオペラ「オルランド・パラディ―ノ」の映像(ヤーコプス指揮)における“おとぼけの二重唱”で一躍名を知られた歌い手で、今回のオラトリオでは美の役を担当。もう一人のソプラノ、ドイツ系のカテリーナ・カスパー(快楽)の強めの響きとのコントラストも良いだろう。ちなみに、この“時と悟りの勝利”では、のちにオペラ「リナルド」の名アリア“泣くがままにさせて”にも転用された一曲“棘には手を触れず、バラを摘め”が有名だが、このアリアは本作後半で快楽が美に向けて歌うもの。音運びが微妙に違うので、じっくり耳をそばだててみて欲しい。

 また、濃い目の声音を持つフランスのカウンターテナー、ポール・フィギエ(悟り)と歌い回しの切れ味が良い英国人テノール、トーマス・ウォーカー(時)も、今回の公演を支える大切な二人。ヤーコプスの俊敏で大らかな曲作りのもとで、彼らが実力を大いに発揮するさまも楽しみにしている。

 


ルネ・ヤーコプス(René Jacobs)
バロックと古典派における声楽音楽のスペシャリスト。260枚を超えるレコーディングなど、歌手、指揮者として、また研究教育の分野でも卓越した成果を残している。1977年、バロック時代のオペラや声楽のレパートリーを探求するアンサンブル、コンチェルト・ヴォカーレを結成。1983年インスブルック古楽音楽祭でオペラ指揮者としてデビュー、ベルリン国立歌劇場、アン・デア・ウィーン劇場、ベルギー王立モネ劇場、ザルツブルク音楽祭、エクサン・プロヴァンス音楽祭、パリ国立オペラなど、主要な歌劇場で指揮している。

 


LIVE INFORMATION
ルネ・ヤーコプス ビー・ロック・オーケストラ
ヘンデル “時と悟りの勝利”

2025年4月4日(金)東京オペラシティコンサートホール
開演:19:00

■出演
ルネ・ヤーコプス(指揮)
ビー・ロック・オーケストラ
美:スンへ・イム(ソプラノ)
快楽:カテリーナ・カスパー(ソプラノ)
悟り:ポール・フィギエ(アルト)
時:トーマス・ウォーカー(テノール)

■曲目
ヘンデル:オラトリオ“時と悟りの勝利”HWV46a[日本語字幕付]

https://www.operacity.jp/concert/calendar/detail.php?id=17110