過去を見つめることは立ち止まることではない
フォックス・サーチライト・ピクチャーズの映画には基本的に、やるせないこの世界とどうつきあっていくか、という問いかけがあり、それをあくまでフィジカルに(つまり映画的に)考えていく、という姿勢がある。たとえば、「おとなの恋には嘘がある」では、ボディセラピストの仕事をしているヒロインが、常に重いスーツケースを持ち運んでいる。それが彼女の動きをひどく鈍重なものにしているわけだが、こんがらがって収拾がつかなくなった恋愛にはまり込む彼女を最終的に救うのが実はそのスーツケースの重さである、という展開に、典型的なフォックス・サーチライトのスタイルが見える。人生のお荷物が逆に人生を救うという教訓めいた話が、あくまで身体的に、フィジカルに語られているのだ。
ウェス・アンダーソンは、そんなフォックス・サーチライトの〈社風〉と相性がいい。相性がいいどころか、そのスタイルで難度の高い映画的美技を繰り出してくる。
「グランド・ブダペスト・ホテル」では、主要な人物が登場する多くのショットで、顔が横を向いている。無表情に静止した横顔が映し出された後、やおら彼らは動き始め、物語が動き始める。横顔を見せるわずかな時間に登場人物と映画との間に生まれる距離。それはこの映画がいくつかの区切られたチャプターを字幕で示すことや、この物語の作家のナレーションがシーンを先導して語ることとも、響き合っている。それらは映画に過去の時制を導入する。既に書かれ形を成した物語をひもとくように、この映画は人と物語を語る。
なぜそうなるのか。それはこの映画の主人公が、レイフ・ファインズ演じるホテルのコンシエルジュ、グスタヴであるからだ。両大戦に挟まれた時代に、オーストリア・ハンガリー帝国の残照とも言うべきグランドホテルを仕切るこの男は、終始強いフレグランスの香りを漂わせながら、隠喩に満ちた言葉で滅びつつある欧州への愛惜を語り続ける。生の規範は既に失われた詩の時代にあり、現実が現実でしかない時代に一人取り残されたような男を描くための文体を、この映画は選択しているのだ。
セリフ回しだけではない。グスタヴの身ごなしには目を見張るようなしなやかさ、流麗さがあり、それは、映画のもう一人の主人公、ゼロ・ムスタファ(トニー・レヴォロリ)との対比によって、さらに際立ってくる。中東の戦禍を逃れて東欧に流れて来た難民ゼロは、グスタヴのもとでベルボーイとして働き始めるが、グスタヴの言葉をオウム返しに繰り返す以外は口を開かず、仕草もそそくさと機械的だ。それだけに、やがてグスタヴの弟子となり盟友となりひいてはホテルを受け継ぐことになるゼロが、老人になり自らを語る段になると、全く別人かと思えるほどの貴族的でエレガントなエロキューションと仕草を身に着けていることに、驚かされる。滅びつつある文化を継承しようという意志を、この映画はそんな風に表現する。
もともと、機械人形めいたぎこちない人物の動きは、奥行きを欠いた書き割りめいた空間とともに、ウェス・アンダーソンの映画を特徴づけてきた。そこから紙芝居を見ているような懐かしい世界が展開したりもするわけだが、しかし、彼の懐旧趣味は、趣味に終わらない。彼の映画は、サイレント映画伝来の全身を使ったアクションを映画に甦らせることで硬直や停滞から逃れ続け、生き生きと前に走っていく。
冒頭、作家が画面の正面を向いてこの物語を語り始めるが、喋っている最中に、突然彼は横を向いて怒鳴り始める。書斎に闖入してきた孫が、彼を目がけて水鉄砲を撃ち始めるからだ。あるいは若い作家(ツイードのスーツでパイプをくわえるジュード・ロウ!)が、ホテルのオーナーとなった年老いたゼロと浴場で会話を交わす場面、隣り合った浴槽で会話をしていると、不意にゼロが画面からいなくなる。バスタブの外に痰を吐きに行くからだ。話を中断することで、先を聞きたいという聞き手の思いをかきたてる焦らしの話術だと言えようが、かかる唐突なリズムの変調を、この映画は、あくまで意表を突く身体的なアクションによって作りだしている。
横や奥という水平の空間への移動により、予想外のアクションが映画に侵入してくることは、アンダーソン映画の特徴の一つだ。そんな要素が全編に充満しているのが「ダージリン急行」であるのは言うまでもない。そもそも主要な舞台が水平に移動し続ける列車であるし(乗客は常に列車と競走しながら客車に飛び乗る)、その列車内でも画面の水平運動によって様々なアクションが生起するからだ。崩壊し離散した家族が再生していく物語が、マルクス兄弟を思わせる三人の兄弟の、無声映画のように全身を使ったアクションの連鎖によって語られるのだ。