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東宝版ゴジラへのオマージュ、そしてSF映画、パニック映画へのレフェランスを感じさせ、さまざまな映画を想いおこさせる力作!

 GODZILLAが2隻の戦艦をしたがえるようなかたちで泳いでいるさまがみられるなんて、予想できなかったな。しかもGODZILLAは大きな空母の下を潜ったりするのだ。あっちからやってきて、大変だ!とおもっていると、ぐうっと潜航して、むこうにでてゆく。う〜む。やるなぁ。

 東宝版ゴジラは顔を海の外にだしていることが多かった(足は白鳥のように懸命に動いているとのマンガを描いていたのは江口寿史だったかと記憶する)。だが、海ではこのGODZILLA、背びれだけしかでてこない。部分しかみえないところが、いい。シネクドック(提喩)だ。部分で全体をあらわす。背びれが全体を想像させる。なかなかあらわれないからなおのこと想像をかきたてられる。

ギャレス・エドワーズ 『GODZILLA ゴジラ』 東宝(2015)

 ローランド・エメリッヒが監督した『GODZILLA』(1998)は不満だった。いや、個人的にいえば噴飯ものだった。映画として観るだけならまだいい。でも、アレが「ゴジラ」の名を持ってはいけない、そんなふうにおもっていた人も多い。だから『GODZILLA ゴジラ』は心配だったし、はじめは様子見、疑心暗鬼の状態だった。監督のギャレス・エドワーズは1975年生まれ。やっと40歳。いいほうに転ぶか悪いほうに転ぶか。

 冒頭、ドキュメンタリーなのだろうか、白黒の記録映像らしきものと極秘文書らしきものが映しだされる。音楽がいいじゃないか。3度音程がくりかえされる。東宝版ゴジラの音楽、伊福部昭の音楽を踏まえているのがわかる。伊福部テーマではタラ・ラ(ン)、タラ・ラ(ン)/タラ・ララ・ララ・ララ・ラ(〈・〉でくぎられているのが1拍、〈/〉の区切りは小節ね)、に対して、もっとテンポはアップし、タララン・タララン・タララン・タンタン/タララン・タララン・タンタンタンと切迫感がつよい。どちらもノリがいい。そして、ふつうの拍子に対して半拍の加算・減算して、変拍子にしている。おぉ、アレクサンドル・デスプラ、芸がこまかい!

 怪獣はなかなか姿をみせない。しかもGODZILLAは真打ちだから出番はあとだ。東宝系というより大映系なんじゃないかとおもわせるM.U.T.O.もまず卵や蛹でばかり。やっとでてきても細部とかクローズアップした部分が多い。いや、でも考えてみればいい。そばにいる2メートルもないヒトからみたらそんなもの。いきなり目の前にくる大きな何かに視線を奪われ、全体なんか容易にとらえられないだろう、きっと。

 GODZILLAも全身はなかなかでてこない。みえない。建物に阻まれたり、あたりが暗かったりするせいもある。だから、映画全体でも全身をさらすのは数えるほどだ。ちゃんと陽の光をあびて勇姿をみせるのをとっておく。GODZILLAの顔は……好みがわかれるだろうなぁ。東宝系が猫顔だったから、こっちは犬顔で、と監督は言っていたのを読んだけど、たしかに、そう言われれば、だ。

 さて一方、GODZILLAやM.U.T.O.は、モニター画面にあらわれる。アメリカ軍の基地でだったり、TVにだったり、いわばメディア化した怪獣たち。それは、いうまでもない、湾岸戦争以後、写真やテレヴィ画面をとおして遠隔地の情報が伝えられるという現在のわたしたちのいる文脈を示してもいよう。

 GODZILLA身の丈は108メートル。ゴジラ史上もっとも大きい。1954年の最初の作品では50メートルだったことを想いおこしておこう。これが大体のスタンダードだ。TVで放送していた特撮シリーズ番組でも変わらない。その後何度か設定は変わっているが、東宝での最大身長は100メートル。それよりも10メートル近くある。

 怪獣たちが戦うサンフランシスコの中華街の赤い提灯がたくさんさがって揺れているむこうにM.U.T.O.やGODZILLAがいる光景は美しい。CGだとはわかっていても、戦闘機がつぎつぎに電気系統の停止で落ちてくるシーン、兵隊たちがサンフランシスコ上空からパラシュートで降下するシーンもまた。特に後者では「2001年宇宙の旅」でも用いられていたリゲティ“レクィエム”がひびくのは、効果としても、またシーンのレフェランスとしてもうなずける。

 東宝版ゴジラはもちろん、平成ガメラ・シリーズ、「鉄男 THE BULLET MAN」、1999年アメリカ版ゴジラから「エイリアン」「ジュラシック・パーク」「宇宙戦争」、その他さまざまSF映画、パニック映画へのレフェランス。いや、違っているかもしれない。違っているかもしれないが、わたしがみてきたさまざまな映画を想いおこさせてくれるのがこの「GODZILLA ゴジラ」のおもしろさだ。映画内で特に言及されるわけではないけれど、海鳥たちが何度かあらわれるのも、東宝版にあるエピソードと呼応しているかにみえる。

 この映画、主役はたしかに怪獣だ。しかし、このあたりハリウッドなのだけれど、親と子、つよい男性としっかりした女性のつれあい、といったヒトの物語も怪獣に劣らぬものとしてある。そしてだからこそ、より広くみるものへの求心力が持てる。

 先に音楽についてすこしふれたけれども、そもそもM.U.T.O.が音を発し、遠くはなれたもう1匹とコミュニケーションをとっているというのもおもしろい。映画には生物音響学なんていうのもでてきたりする。しかもGODZILLAはM.U.T.O.のやりとりを〈聞いていた〉、傍受していたなんて、なかなか隅におけないではないか、GODZILLAは。

 音楽を担当したアレクサンドル・デスプラは、最近では「英国王のスピーチ」や「ホビット」、そして「グランド・ブダペスト・ホテル」を手掛けたのが記憶に新しいが、GODZILLAでのオーケストラのならし方もなかなか、である。カメラが雀路羅(じゃんじら)市にむかうシーンでは太鼓や尺八――「ブラック・レイン」? 「ライジング・サン」?――らしいひびきもつかっていたり、こうした映画のしごとの前にはオペラやバレエなどもあるという。GODZILLAがM.U.T.O.を倒すと雄叫びに代わって〈レミ〜〉という長二度のひびきがホルンで奏でられるのだが、こうしたところにも、東宝版へのオマージュがみえて、好感が持てたりするのである。

 ところで、映画への疑問はいくつかあるのだ。ネタバレになってしまうかもしれないけど、映画は公開されているのでお許しいただこう。何ならこのパラグラフをとばしていただければいい。さしあたって2点、M.U.T.O.はいつ交尾したのか、と、船に乗った核弾頭はどうなったのか、だ。後者は、わからないではない。でも、もしそうだとしたら、核兵器を甘くみすぎているんじゃないか、とおもわずにはいられない。前者は、どこか辻褄があわないようにおもえるのだが……。

 津波があり地震がある。原子力発電所の破壊がある。巨大生物への攻撃がある。言及されるだけだが、火山の噴火さえあった。こうしたわたしたちにとって絵空事ではないことどもは、怪獣たちの出現の前に色あせてゆく。個々の事態は置き去りになってゆく。これらも怪獣たちを引き立たせるためのものなのかどうか。

 それにしても、なぜサンフランシスコ?だ。もちろん日本列島からハワイ、ホノルルという線は結びやすいのはたしかだろう。それと同時に想像してしまうのは、1951年に日米間で講和条約が結ばれたかの地に怪獣たちが、それも核とゆかりのある怪獣たちがやってくるのは、偶然であるのかないのか。ストーリーを展開するうえでのことだったのか、どうか。いやいや、もちろん妄想なのだけれども。

 そうそう、DVD/BDで観るときの注意をひとつ。これはほかのハリウッド映画でもしばしばそうだが、ところどころ、画面が暗い。暗いなかでいろいろ起こる。DVDでは〈明るい部屋でご覧ください〉と注意が喚起されたりするけれど、家庭でふつうに明かりをつけてみていると何が起こっているかわからない可能性がある。映画館が暗くなって大きなスクリーンのなかにある明かりで観ているのとは違う。なので、眼が悪くなるのに注意しつつ、できるだけ暗くしたほうが、何が起こっているかがわかる。ま、そんなことは言わなくてもわかるかな。とはいえ、そんな疑問もこの映画があってこそ。みることが先決だ。