from BROWN to BLACK
[ 特集 ]ディアンジェロから広がる漆黒の世界
年末から年始にかけて世を席巻しまくった『Black Messiah』。ひとしきり大騒ぎした後は次のハイプを待つのか、その奥深くへ入り込むか、どうする?
from BROWN SUGAR to BLACK MESSIAH
THE D'AYS OF WILD
「こんなクソったれなツアー、早く終わっちまえばいいのに」――
『Voodoo』ツアーの際にそう言い放ったディアンジェロは、それから10年近く表舞台から姿を消してしまった。その間、いくつかの客演はあったが、伝えられるニュースの多くは、敬愛するマーヴィン・ゲイの晩年にも似た荒んだ私生活。が、そんな空白の時間が彼を超人にし、アルバムを出さないことがプロモーションになってしまうのだから、この男は凄い。
2014年12月12日、同年8月に出演した〈Afro Punk Fest〉における聴衆たちの手を写したとされるアルバム・ジャケットがCDとしてネットに公開され、同月15日にディアンジェロ&ザ・ヴァンガード名義で発表された新作『Black Messiah』は、出れば案の定大騒ぎとなった。過去にリリースした『Brown Sugar』(95年)と『Voodoo』(2000年)という2枚のアルバムでニュー・クラシック・ソウル~ネオ・ソウルというムーヴメントを(本人の思惑とは別に)生み出したカリスマだけに騒がれるのは無理もない。2007年にクエストラヴが先走って公開した“Really Love”をはじめとするリーク音源がブートで出回り、非公式のライヴ盤まで出されるほど、ディアンジェロの復活は本当に待ち望まれていたのだ。
新作は、リズム隊の中核を担うクエストラヴの口から〈97%完成〉〈99%完成〉といった報告がなされながらも一向に出る気配がなかったが、いま思えば、2014年5月にネルソン・ジョージが司会を務めたレッドブル・ミュージック・アカデミー(RBMA)のレクチャー(本稿でも一部参考)に登場した時点で発売が決定していたのだろう。そこにファーガソンの事件などが起こり、緊急発売。〈黒い救世主〉を謳った今回のアルバムは過去最高とも言えるメッセージ性とブラック・ミュージックの革新的な先達(スライ・ストーン、ファンカデリック、プリンス、マイルス・デイヴィスなど)を彷彿させる音楽性に注目が集まっているが、本来は容易には理解しがたいそれらの要素がある種のフックとなってキャッチーに受け止められているようだ。が、それにしてもだ。南部出身者らしいレイドバックした男だとは聞かされていたが、なぜ彼の時計はこうも遅いのか。
いくつもの出会いを経て
本名をマイケル・ユージン・アーチャーというディアンジェロ(以下D)はヴァージニア州リッチモンド出身。ペンテコステ派の牧師である父の影響で教会の聖歌隊で歌い始めた彼は無類の音楽好きである。なにしろRBMAのレクチャーでリッチモンド出身のミュージシャンとして最初に名前を挙げたのはメイジャー・ハリス。Dはそのメイジャーがデルフォニックスからソロに再転身した年、1974年2月11日に3人兄弟の末っ子として産声をあげているが、5歳になる頃にはプリンスに入れ込んでいたという。Dの殿下マニアぶりは、シングルB面曲“She's Always In My Hair”をカヴァーするセンスや『Crystal Ball』に収録されたブート曲“Movie Star”をフェイヴァリットに挙げているあたりからも明らかだろう。7歳上の兄ルーサーの影響で3歳からピアノを始めたDはプリンスのようにさまざまな楽器を習得。初めて演奏した曲はアース・ウィンド&ファイアの“Boogie Wonderland”やドナ・サマーの“Hot Stuff”だったという。両親の離婚を経験した後、12~3歳の時にはクラシック・ピアノの正式なレッスンを受けたこともあるようだ。
そんなDが16歳の時に従兄弟たちと組んだのがマイケル・アーチャー&プリサイスというグループだった。90年代初頭のこと。このグループでNYに出向き、アポロ・シアターのアマチュア・ナイトに出演したDはピーボ・ブライソンの“Feel The Fire”を歌って3位に入賞。その次のステージでは当時流行っていたジョニー・ギルの“Rub You The Right Way”を歌ったという。R&Bの人なのだ。そんなDのルーツは、これまでにライヴや客演も含めてカヴァー/リメイクしてきたアーティスト――スモーキー・ロビンソン、プリンス、EW&F、オハイオ・プレイヤーズ、マンドリル、アル・グリーン、エディ・ケンドリックス、ロバータ・フラック、スライ&ザ・ファミリー・ストーン、ファンカデリックなど――からも窺い知ることができる。当初は日本のみでのリリースだった95年ライヴの実況盤『Live At The Jazz Cafe, London』(96年)はその好サンプルと言っていいだろう。
EMIと契約したのは93年、19歳(18歳?)の時とされる。それからアルバムが出るまでには数年かかっているが、その間にDはボーイズ・クワイア・オブ・ハーレムの94年作『Sound Of Hope』に収録された“Overjoyed”をプロデュース。また、同作に参加していたブライアン・マックナイトと共同制作したのが、サントラ『Jason's Lyric』(95年)に収録されたBMU(ブラック・メン・ユナイテッド)名義の男性R&Bシンガー結集曲“U Will Know”だ。Dが17歳で作曲(作詞は兄ルーサー)していたこの曲はEMIに渡るデモに収録していたもので、Dの人生を変えた。が、それ以上にDの人生を変えたのはアンジー・ストーンとの出会いだろう。
私生活におけるパートナーで一児を儲けたアンジーとは、後に彼女のソロ曲や男性4人組トゥワイスの作品で共同作業も行うが、アンジーによれば、当時はまだ田舎の純朴な青年で自信もなかった19歳のDを献身的にサポートしたという。その流れでDは、当時アンジーが属していたヴァーティカル・ホールドの95年作『Head First』収録の“Pray”にピアノとヴォーカルで参加。このアルバムでエグゼクティヴ・プロデューサーを務めていたのが、Dの初代マネージャーとなったキダー・マッセンバーグであった。エリカ・バドゥを売り出す際にサントラ『High School High』(96年)にてマーヴィン・ゲイ&タミー・テレルの“Your Precious Love”をDとデュエットさせた御仁である。
そして95年、アンジーとの共作曲を含む『Brown Sugar』が発表される。アンジーが編んだというコーンロウの髪型で写るアルバム・ジャケットは、襟の広いレザーの上着が伝えるようにマーヴィン・ゲイ『What's Going On』(71年)へのオマージュ。元カノに思いを馳せながら、ブラックスプロイテーション・ムーヴィーを観て息抜きしつつ寝室で書いたという楽曲が並ぶアルバムは、ざっくり言えば〈ヒップホップ感覚で再現した70年代ニュー・ソウル〉といったものだった。高校時代にはI.D.U.(Intelligent, Deadly, but Unique)なる地元のラップ・グループに参加していたDだが、憧れだったア・トライブ・コールド・クエスト(ATCQ)のアリ・シャヒードと共同制作した表題曲“Brown Sugar”の、従来のR&Bとは違うループ感のあるトラックで歌う作法は当時としては斬新で、ヒップホップ世代であること強く意識させた。ATCQなどを手掛けていたエンジニアで、コ・プロデュースやギターでも参加したボブ・パワーも〈斬新な音〉に貢献しただろう。
一方で、ドラッグと褐色の肌の女性への愛を謳ったリリックと相まって麻薬的な快感を生んだダーティーでスムースな同曲は、彼のトレードマークとなる酩酊感のある多重コーラスもキモ。Dは、牧師の実父に射殺されて他界したマーヴィン・ゲイに起因する悪夢を10歳から見続けていたというが、大袈裟な表現を用いれば、そこにはマーヴィンの亡霊が宿っていた。こうしてDはマクスウェルやエリック・ベネイらと共にニュー・クラシック・ソウルの気鋭として括られ、キダー・マッセンバーグによって〈ネオ・ソウル〉というネーミングに書き換えられたシーンの顔役となる。
成功と失意
97年にBB・キングのアルバムに客演したDはブルースにも精通しているが、彼がヒップホップのアートフォームに根差したシンガー/ファンカーであることは、同じ志を持つローリン・ヒルとのデュエットを経て、次なるアルバムに先駆けて発表したDJプレミアとの共同制作曲“Devil's Pie”やメソッドマン&レッドマンとの“Left & Right”を聴けば明らかだろう。
そして、この2曲を含めて2000年に発表したセカンド・アルバムが『Voodoo』である。リズム隊の核となったのは、ザ・ルーツとして何度かDと共演を行っていたクエストラヴ。彼を中心に、D、ジェイムズ・ポイザー、ジェイ・ディー(J・ディラ)という水瓶座生まれの4人から成るミュージック・コレクティヴとしてオーガニックな空間を醸成したのが、ジミ・ヘンドリックスの魂が宿るNYのエレクトリック・レディ・スタジオを根城としたソウルクエリアンズだった。『Voodoo』はその呪術的な表題が示すようにアフロセントリックな内容で難解さもあったが、チャーリー・ハンターやロイ・ハーグローヴの参加でジャズの要素も加わった人力演奏による黒く深く粘っこいグルーヴはミュージシャンシップの復権を促し、同年に発表されたコモン『Like Water For Chocolate』、エリカ・バドゥ『Mama's Gun』と共に〈ソウルクエリアンズ3部作〉としてブラック・ミュージックが進むべきひとつの道筋を指し示す。スタジオでのジャム・セッションを何のフィルターも通さず伝えたようなグリッティーで生々しい音像。それをエンジニアとして音盤に刻み込んだのは、今回の新作にも関与したラッセル・エレヴァドだ。
こうしてDは、『Voodoo』の録音メンバーを中心としたバンド、ソウルトロニックス(フェラ・クティのトリビュート盤などにも参加)を引き連れてツアーに出る。が、やがて冒頭の言葉を残して表舞台から消滅。“Untitled(How Does It Feel)”のMVで裸体を晒したことで観客からストリップを強要されたこともDをナーヴァスにしたらしい。それでも、同曲やファーストでの“Lady”といったスロウ・ジャムを手掛けたラファエル・サディーク、そのラファエルを含むリンウッド・ローズというユニットを一時結成したQ・ティップとは共演も含めてコラボが続き、2000年代には復帰すると思われていた。結果的に今回の新作ではQ・ティップがPファンク一派のケンドラ・フォスターとペンを交えているが、2012年に欧州ツアーで復帰するまでのDは、飲酒運転や薬物の不法所持による逮捕、自動車事故による大怪我など、公私共に暗黒時代となる。
2006年2月にソウルクエリアンズの同志だったJ・ディラが亡くなり、それを機にエリック・クラプトンの設立した更生施設で薬物を断とうとしたこともあった。が、Jレコーズから『James River』というタイトルで新作が出るとアナウンスされるもDは沈黙。具体的に進捗状況が見えてきたのは2011年、『Voodoo』に貢献したピノ・パラディーノや巨匠ジェイムズ・ギャドソンらとNYのスタジオに入ったと、ラッセル・エレヴァドによって伝えられた時だ。RCAから出された『Black Messiah』を耳にしたいま、これは本当だったことが判明した。
表現の根本にあるもの
空白期の収穫は、『Voodoo』制作時に魅せられたというギターの腕前が上達したことだろう。結果、新作でのDはジミヘン風のギターで紫煙をくゆらすようなプレイを披露。地元リッチモンドのパンク~ヘヴィーメタル・シーンにも愛着を持つというDだが、そんな感性は“Ain't That Easy”や“1000 Deaths”によく表れている。が、圧巻のグルーヴを生んだのは、2008年に他界したスパンキー・アルフォードを含むソウルトロニックスの残党および復活ツアーに同行したジェシー・ジョンソンやクリス・デイヴらから成るヴァンガードの面々だろう。ゆえに共同名義なのだろうが、裏を返せば『Black Messiah』はひとりのカリスマに頼った作品ではないということだ。それだけに、全知全能の神であるかの如く黒人音楽の全歴史を背負わせ、世直しのアイコンのように祭り上げてしまうのは少々重い気がする。とはいえ、そうしたある種の狂信に応える器量の持ち主であることも確かで、出演が決まった今夏の〈サマーソニック〉でも期待に違わぬステージを披露してくれることだろう。
R&Bを飛び越えた存在――確かにいまのDはそうだが、ヴァーティカル・ホールドの“Pray”も含め、思えば彼のアルバムのラストは、『Brown Sugar』での“Higher”、『Voodoo』での“Africa”、そして新作での“Another Life”、どれも甘美でスピリチュアルなソウルだ。それはマへリア・ジャクソンなどを聴いていたという幼少期への原点回帰のようにも思える。そして、そうした絶対的基盤があるからこそDは自由に飛んでいく。〈ジャンルなんて関係ないというジャンル〉さえ超えた独自のソウルを表現しているのだ。