最初のヒットから50年、〈ブラック・モーゼ〉の奥深いグルーヴと甘い囁き

 巷では黒い救世主(Black Messiah)の話題で持ちきりだが、では、黒いモーゼ(Black Moses)はどうだろう。アイザック・ヘイズ。70年代のソウル・ミュージック界に革命を起こし、ブラック・コミュニティーで圧倒的支持を得たカリスマ。アフロ・ヘアがブラック・パワーの象徴とされた時代につんつるてんのスキンヘッドで強烈なインパクトを与え、官能を描きながらメッセージを込めた歌でモーゼよろしく民を救った彼もまた黒い救世主だった。

 66歳の誕生日を10日後に控えた2008年8月10日、長きに渡る活動拠点のメンフィスで他界したヘイズ。数々の伝説を残してきたこの男のもっともよく知られた功績といえば、71年の映画「Shaft」(邦題「黒いジャガー」)の主題歌がアカデミー最優秀歌曲賞の栄誉に輝いたことだろう(俳優以外でオスカーを手にした初のアフリカン・アメリカンとされる)。そのリメイク版が2000年に公開された際には主題歌も再演されたが、同じサントラに収録されたアリシア・キーズ“Rock Wit U”でも彼が緊迫感のある〈シャフト〉流儀で鍵盤演奏や弦アレンジを手掛けていたように、ヘイズといえばその印象が強い。

71年作『Shaft』収録曲“Theme From Shaft”

 が、そればかりではない。そもそもヘイズは、サントラ『Shaft』で栄誉を勝ち取る前、アトランティック配給期のスタックスにて鍵盤奏者やアレンジャー、およびデヴィッド・ポーターとのコンビでソングライターとして活躍。メンフィス・ソウルの裏方としてサム&デイヴやオーティス・レディングらのヒットに貢献していた。その後、黒人経営者のアル・ベルがスタックスの実権を握り始めた60年代後半から、ヘイズはレコーディング・アーティストとして文字通り頭角を現し、傍系のエンタープライズから作品を放っていく。むろん『Shaft』もその時期の作品で、当時の彼は同時代のソウルやポップスの名曲を独自のセンスでカヴァーしながら、ソウル・シーンにおいては前例を見ない10分前後の長尺曲を収めたコンセプチュアルなアルバムを続々と発表。それまでソングライターとして2~3分のシングルに魂を吹き込んでいたヘイズは、LP時代の到来に歩調を合わせるかのようにトータル・アルバムという表現形態でソウル市場を一変させる。それは、70年代初頭のマーヴィン・ゲイやカーティス・メイフィールド、ジェイムズ・ブラウン、テンプテーションズなどにも大きな影響を及ぼした。

サム&デイヴの66年作『Hold On, I’m Coming』収録曲“Hold On, I’m Coming”

 ネットリとした前戯を思わせる(がゴスペル的とも言える)長い序奏。低音ヴォイスで淡々と歌い綴るモノローグ的な歌唱。〈ムーヴメント〉というバンドを率いてオーケストラを司り、複数の名義で作品を出し続けた(結果的にヘイズの最終作となった95年のアルバムもソロ作『Branded』とムーヴメント名義の『Raw & Defined』の2本立てだった)あたりも含め、ヘイズのスケールの大きいシンフォニックなソウル作法は、ラヴ・アンリミテッド・オーケストラを率いたバリー・ホワイトとも相通じるものだろう。後にヘイズはホワイトの“Dark And Lovely(You Over There)”(91年)で〈低音共演〉を果たしたほど、ふたりの個性はよく似ている。ただし、ホワイトがイージー・リスニング風のゴージャスさで幅広い層から人気を得たのに対し、ドス黒く沈鬱なムードで迫ったヘイズは黒人層からの支持が圧倒的だった。映画化もされた黒人コミュニティー救済目的のフェス〈Wattstax〉(72年)にて、ゴールドのチェーンを裸体に巻きつけ、スタックスの顔役としてトリを飾ったことは彼の立ち位置を端的に証明する一幕だったように思う。

バリー・ホワイトの91年作『Put Me In Your Mix』収録曲 “Dark And Lovely (You Over There)”

 45回転のレコードを33回転でかけたかのような、いまならスクリュー的とも言える重くかったるい歌声(とサウンド)は、それが速回しするなどされて夥しい数のサンプリング例を生むことになったわけだが、その声がおもしろがられることはあってもソウル・ヴォーカルとして真っ当に評価されたことがないというのも、ヘイズの弱点にして類稀な個性だった。1942年にテネシー州コヴィントンで生まれ、貧しい少年時代を送った彼は、10代の頃にメンフィスに赴き、60年代初頭からスタックスの鍵盤奏者として活動を始めている。実は62年に別のレーベルから歌手デビューもしていたが、裏方としての活動が忙しくなったのか、歌手としての力量のなさに気付いたのか、シンガーとしての活動はすぐに休止。実際にスタックスの首脳陣もヘイズに歌わせるつもりはなかったらしい。ところが、60年代後半、サウンド・コンセプトを重視する時代の到来を機に歌手として再デビュー。結果、シングルはさほど売れなかったが、アルバムはジャズ・チャートも含めて大いに売れた。続編を何度も発表した“Ike's Mood”や“Ike's Rap”といった曲に代表されるように、ヘイズの歌はムードとしてのそれであり、ラップの先駆けとも言えるものだった。ゆえに、後にウータン・クランやグールーの楽曲にフィーチャーされたのも納得がいく。