現代音楽の「いま」とはなにか~20世紀の音楽を21世紀の音楽へと引き継ぐために
坂本龍一監修による音楽全集『commmons: schola vol.15』は、「20世紀の音楽 II」として、 vol.12の「20世紀の音楽 I」を引き継ぎ、1945年以降から現在(21世紀もふくむ)までのヨーロッパを中心とした所謂「現代音楽」を対象として編纂されている。興味深いのは、解説ブックレットの選曲者による座談の中でも書かれているように、現代音楽というものが「70年代頃を境に勢いを失ってしまって、それ以降はあまり面白い音楽は出ていないんじゃないか」(坂本)、というような認識が共有されている/されていた、ということである。主題としての「大きな物語」を欠いた、20世紀の後半以降という時代に、「一部の聴衆の関心しか惹かない一分野」(浅田彰)という、ある意味、特殊なポジションに閉じられた、同時代的ではないジャンルになってしまったかのように語られもする現代音楽(英語では同時代音楽)にはどのような注目に値する様式、動向があるのか、またそれは現在どのように展開しているのか。
VARIOUS ARTISTS commmons:schola vol.15 Ryuichi Sakamoto & Dai Fujikura Selections:Music of the 20th century II - 1945 to present commmons(2015)
今回の選曲に参加した、ロンドンを拠点に活動する1977年生まれの作曲家藤倉大は、普段あまり耳にすることのない現代音楽をよく知る当事者として参加を要請されているとも言えるだろう。そうした立場から藤倉は、音楽の前衛、いわば先端的な音楽としての現代音楽を、かつて以上に現在的で豊かな表現を獲得しているジャンルであるとする。また、 たとえば「70年代までに書かれた現代音楽の作品が多くの聴衆のために書かれていたのかと言えば必ずしもそうではないだろうし、またそれ以降、現代音楽の聴衆が減少傾向にあるということでもないだろう」と言う。
主題の喪失という問題に関しては、それによってある意味多様化した様式、手法に起因する、とらえにくさが現代音楽を判りにくいものにしているということはあるだろう。藤倉は「クラシックの時代には、みながソナタなどの形式の中で音楽を作っていたが、現代になると、作曲家ひとりひとりがオリジナリティを追求するようになってきた」と言う。そ して、それぞれ〈ミニマル・ミュージック〉とか、〈スペクトル楽派〉といった、各自のジャンル、作風の名刺を持っているような状態になった。以降、「たとえば、リゲティも、アフリカの音楽やセリエルなどあらゆるものを吸収して自分のものにしてしまう」というように、ひとりの作曲家がひとつの様式で作曲するのではなく、部分的にいろいろな様式が組み合わされて作品が作られるようになる。それは現在の、iPodのプレイリストにポピュラー音楽の次にブーレーズが入っていることもめずらしいことではないような、音楽の聴き方の変化とも関係があるだろう。
今回の「20世紀の音楽 II」では、現代音楽の中でもミニマル・ミュージック、実験音楽、電子音楽は含まれていない。それらは、先頃鬼籍に入った、 ある意味20世紀の現代音楽を象徴する作曲家ブーレーズやシュトックハウゼンらに対する、反ヨーロッパ主義的な、ケージの実験音楽の系譜である。 しかしたとえば、ミニマル・ミュージックはポピュラー音楽にかぎらず、他の音楽ジャンルへも多大な影響を与えているのに対して、前衛音楽の他ジャンルへの影響関係にはどのようなものがあるだろうか。藤倉は、現在のエレクトロニカなどのコンピュータ音楽において使用されている、グラニュラー・シンセシスなどのソフトウェアも、シュトックハウゼンの《コンタクテ》などにその起源を聴き取ることができるという。このようなコンピレーションの意義とは、直接には関係を結ぶことがなかった作曲家を関係づけることにある。またそれは、実際には交わることのなかった様式、時代を隔てた動向を結びつける想像力を喚起するだろう。
「このCDを聴いて、ちょっとでもおもしろいと思ったなら、すぐググって、同じ作曲家の他の作品を聴いてみてほしい。それがよかったなら生で聴けるチャンスも探してみてほしい。ある作品を検索したら、また関係する作曲家が出てきて、それが最後には自分が好きなポピュラー音楽のアーティストにつながるかもしれないし」
またこのCDでは、「20世紀の音楽」をはみだして、21世紀の作品までが収録されている。それは、現代音楽を枠にはめることではなく、開放されたジャンルとして、つねに“いま”であるアクチュアルな表現としてとらえる藤倉の意志が感じられる。