飛躍と停滞
J・ディラ/ジェイ・ディーことジェイムズ・デヴィッド・ヤンシーは74年2月7日の生まれ。出身は、後に“Conant Gardens”で歌われる通り、デトロイトのロウワー・イーストサイドに位置するコナントガーデンズ地区だ。〈生まれた頃からジャズを聴かないと眠らなかった〉など後の天才性を窺わせるエピソードも凄いが、母の導きで小さな頃からピアノやチェロ、ドラムスの演奏に親しんでいたことも重要だし、少年時代に生涯の仲間たちと出会えたことも大きかった。幼馴染みのフランク・ニットと揃ってDJを始めた彼は、やがてダンカリー・ハーヴも交えて近所でラップに興じるようになる。
そして、MCシルクを名乗った14歳のジェイムズはさらにその輪を広げていく。同じ中学にいたT3が祖母宅の地下室で催したMCバトルに参加し、彼の相棒だったバーティンらとセネポッド(dopenessの逆読み)なるユニットを結成したのだ。メンバーはT3とバーティンに加え、DJのワジード、ダンサーのキューD。未成熟なデトロイトのシーンにチャンスは転がっていなかったものの、91年にグループが3MCのスラム・ヴィレッジ(以下SV)へと発展したあたりから、ジェイムズは本名をもじってジェイ・ディーと名乗りはじめている。翌92年には地元の名プロデューサーだったRJ・ライス(元RJ’sレイテスト・アライヴァル)と契約。さらに、アンプ・フィドラーとの出会いが運命を大きく動かした。
アンプ・フィドラーはエンチャントメントのバックでプロの演奏活動を始め、Pファンク軍団での実績を下地に(兄弟ユニットのMrフィドラーとして)メジャー・デビューも経験していた地元の著名ミュージシャンだった。そんな彼のスタジオでは地元の若者たちが楽器や機材の扱いを学んでいて、楽器演奏に秀でていたジェイは、アンプやRJに教わったMPCでのトラックメイクにもすぐ習熟していったという。やがてアンプを通じて業界に広まったジェイのビートに、トライブ・コールド・クエスト(以下ATCQ)の成功で時代の寵児となっていたQ・ティップが与えたお墨付きは大きかった。これがファーサイド仕事への抜擢に繋がり、やがてQとアリ・シャヒードとジェイによる制作チーム=ウマーの結成へと繋がっていくのだ。
ATCQの『Beats, Rhymes And Life』(96年)で実体を現すウマーについては省略するが、前後してジェイはファット・キャットと組んだファースト・ダウンなるユニットでペイデイからシングル“A Day Wit The Homiez”(95年)を投下し、バーティンの元相棒だった友人プルーフや、彼の率いるファイヴ・エレメンツとD12、その一員のビザール、他にもT・ダ・ピンプのような地元ローカルの作品にもコンスタントにトラック提供を行いつつ、SVの曲作りも進めていた。で、SVの『Fantastic Vol. 1』(97年)を聴いたQ・ティップは自身のミュージアム・ミュージックへ誘うもレーベル消滅により話は頓挫、続いて契約したA&Mでは組織替えに伴ってインタースコープへ移され、99年にやっとシングル“Get Dis Money”を出すも結局は契約解除に。ジェイのメジャーへの思いにはこんな根があったのかもしれないが、そうでなくても彼がソウルクエリアンズの一員として才能を爆発させはじめた時期とSVの停滞期が重なったのは皮肉であった。