DILLANTHOLOGY
【緊急ワイド】最後のディラ特集
その最期から10年。J・ディラの残した音楽とその影響力はいまもなお大きくなるばかりだ。そして、長年存在を知られてきた未発表の一作もいよいよ世に出される時が来た。神話や幻想を越えたずっと先にある快感の正体とは……
〈音楽は俺の存在のすべて、俺の人生すべては音楽を中心に回っているんだ〉――J・ディラの遺したそんな言葉で始まるのは、ハイ・テックが2007年に発表した“Music For Life”だ。何を言わんとしているか、勘のいい人ならお察しだろうが……そこで彼のメッセージを受けてマイクを握るのは、今回ディラの未発表アルバム『The Diary』を世に出したマス・アピールを主宰するナズである。生前に直接のコラボは叶わなかったものの、一昨年にディラの“Gobstopper”に乗せたフリー音源“The Season”を投下していたのは、今回の予告でもあったということだろう。
ともかく、悲報から10年。以来、お蔵入りした作品や未発表音源集は数多くリリースされているが、今回の『The Diary』は生前にJ・ディラ自身がリリースを望んでいた作品という意味では、恐らく最後の1枚となる。そもそもこのアルバムは、もともとMCAから2002年にリリース予定だったものがお蔵入りし、ディラ逝去の直後にはストーンズ・スロウからの蔵出しも噂されながら、立ち消えになっていたもの。結果的には、当初の予定から14年の歳月を経て、正式に日の目を見たわけである。
なお、bounceでは2010年にスラム・ヴィレッジを〈PEOPLE TREE〉で取り上げていたり、それ以前もディラ周辺にはたびたび紙幅を割いてきたので、あれこれスキップしている部分についてはバックナンバーや〈tower.jp〉の過去記事をご覧ください。
飛躍と停滞
J・ディラ/ジェイ・ディーことジェイムズ・デヴィッド・ヤンシーは74年2月7日の生まれ。出身は、後に“Conant Gardens”で歌われる通り、デトロイトのロウワー・イーストサイドに位置するコナントガーデンズ地区だ。〈生まれた頃からジャズを聴かないと眠らなかった〉など後の天才性を窺わせるエピソードも凄いが、母の導きで小さな頃からピアノやチェロ、ドラムスの演奏に親しんでいたことも重要だし、少年時代に生涯の仲間たちと出会えたことも大きかった。幼馴染みのフランク・ニットと揃ってDJを始めた彼は、やがてダンカリー・ハーヴも交えて近所でラップに興じるようになる。
そして、MCシルクを名乗った14歳のジェイムズはさらにその輪を広げていく。同じ中学にいたT3が祖母宅の地下室で催したMCバトルに参加し、彼の相棒だったバーティンらとセネポッド(dopenessの逆読み)なるユニットを結成したのだ。メンバーはT3とバーティンに加え、DJのワジード、ダンサーのキューD。未成熟なデトロイトのシーンにチャンスは転がっていなかったものの、91年にグループが3MCのスラム・ヴィレッジ(以下SV)へと発展したあたりから、ジェイムズは本名をもじってジェイ・ディーと名乗りはじめている。翌92年には地元の名プロデューサーだったRJ・ライス(元RJ'sレイテスト・アライヴァル)と契約。さらに、アンプ・フィドラーとの出会いが運命を大きく動かした。
アンプ・フィドラーはエンチャントメントのバックでプロの演奏活動を始め、Pファンク軍団での実績を下地に(兄弟ユニットのMrフィドラーとして)メジャー・デビューも経験していた地元の著名ミュージシャンだった。そんな彼のスタジオでは地元の若者たちが楽器や機材の扱いを学んでいて、楽器演奏に秀でていたジェイは、アンプやRJに教わったMPCでのトラックメイクにもすぐ習熟していったという。やがてアンプを通じて業界に広まったジェイのビートに、トライブ・コールド・クエスト(以下ATCQ)の成功で時代の寵児となっていたQ・ティップが与えたお墨付きは大きかった。これがファーサイド仕事への抜擢に繋がり、やがてQとアリ・シャヒードとジェイによる制作チーム=ウマーの結成へと繋がっていくのだ。
ATCQの『Beats, Rhymes And Life』(96年)で実体を現すウマーについては省略するが、前後してジェイはファット・キャットと組んだファースト・ダウンなるユニットでペイデイからシングル“A Day Wit The Homiez”(95年)を投下し、バーティンの元相棒だった友人プルーフや、彼の率いるファイヴ・エレメンツとD12、その一員のビザール、他にもT・ダ・ピンプのような地元ローカルの作品にもコンスタントにトラック提供を行いつつ、SVの曲作りも進めていた。で、SVの『Fantastic Vol. 1』(97年)を聴いたQ・ティップは自身のミュージアム・ミュージックへ誘うもレーベル消滅により話は頓挫、続いて契約したA&Mでは組織替えに伴ってインタースコープへ移され、99年にやっとシングル“Get Dis Money”を出すも結局は契約解除に。ジェイのメジャーへの思いにはこんな根があったのかもしれないが、そうでなくても彼がソウルクエリアンズの一員として才能を爆発させはじめた時期とSVの停滞期が重なったのは皮肉であった。
野心と挑戦
ここからの展開は早い。どうにか世に出たSVの『Fantastic Vol. 2』(2000年)が高評を得る頃には、ジェイはライヴ欠席が続き、最終的には脱退を選ぶことになる。契機はもちろん初のソロ・アルバム『Welcome 2 Detroit』(2001年)の制作だっただろう。英BBEの〈The Beat Generation〉シリーズ立ち上げに際する企画盤ではあったが、その自由な気安さが創作意欲とソロ志向を強めるのに十分な材料となったのは想像に難くない。同作で初めてJ・ディラという名(コモンの付けた愛称だという)を併用して身軽になった彼は、自主レーベルのマックナスティに旧友フランク&ダンクを引き込み、自身のソロ・ディールも含んでMCAとメジャー契約を交わしたのだった。この環境下で制作された音源こそ、かねてから『Pay Jay』の名でリークされていた今回の『The Diary』というわけである。
MCA側のA&Rを務めたのは、もともとDJだったというウェンディ・ゴールドスタイン。ゲフィン勤務時にルーツの諸作を担当してきた彼女は、コモンのMCA移籍作『Like Water For Chocolate』(2000年)もヒットさせており、その流れでディラと契約するのはごく自然なことだった。ディラのソロ作は2002年、フランク&ダンクのアルバムはその翌年、という計画で制作は進められていく。この時期のディラはコモンの問題作『Electric Circus』やバスタ・ライムズら身近な連中の作品に貢献しながら、フランク&ダンクの制作に集中。さらに自身のアルバムではラップに注力し、トラック制作は信頼できるプロデューサーに大半を委ねるという新たな冒険を試みていた。実際、『The Diary』には朋友ワジードやカリーム・リギンスをはじめ、すでにシーンで盤石の支持を得ていたハイ・テックやマッドリブ、さらにノッツやビンク!、大御所ピート・ロックらのビートが並ぶ。つまり、この不世出のビートメイカーのキャリアにおいては後にも先にもない異色のラップ・アルバムというわけだ。ゲストに名を連ねるスヌープ・ドッグやコケインの参加は当時ドギースタイルがMCA傘下にあった縁もあるのだろうが、他にも新進気鋭のビラル、もちろんフランクとダンクも迎え、最低限の華やかさと共にソロ・ラッパーとしてのエスタブリッシュメントを図ったディラらしい、バランスの取れた布陣だったと言えるのかもしれない。ハウス・シューズの手による導入の“The Introduction”ではATCQ“Excursions”におけるQ様のラインを引用しながら意気を語り、自信満々にマイクを捌くディラの野心的な姿は全編で堪能できる。
なお、リーク音源では“We Fucked Up”として知られていたカニエ・ウェスト制作曲は、ディラ自身のビートによる“The Anthem”に差し替えて収録(リリックは同じだがラップのテイクは異なる)。他にもアップ・アバヴから2001年に出していたシングル“Fuck The Police”など数曲では、ディラもみずからビートを手掛けている。ただ、本人が意気込むほど自作のビートと外部勢のトラックに劇的な隔たりはなかったりもして、それはプロデューサー陣の顔ぶれゆえか、あるいはディラ自身のビートメイクがこの時期に激しく変貌していたからだろう。
失意と再生
自作でラップに専心し、逆にフランク&ダンクの楽曲ではプロデューサーとしての創造性をフル投入していたディラだが、ここで大きな変化があった。フランク&ダンクのアルバム『48 Hours』制作中、D12として成功を収めていたプルーフの誘いでスタジオを訪れた彼は、ドクター・ドレーの制作手法を目の当たりにして衝撃を受けたそうだ。自宅に戻ったディラは出来上がっていたフランク&ダンクの『48 Hours』をすべてスクラップにし、改めてジェイ・ディーではなくJ・ディラという新しい存在に生まれ変わることを宣言。ドレーに倣って生演奏のループをベースにしたビート制作に臨み、アルバムの全編を作り直したのだった。
が、それらが当時世に出ることはなかった。経営状態が思わしくないMCAはゲフィンに吸収される寸前で、A&Rのウェンディはキャピトルに転職、しかもそこですぐにSVをメジャー・デビューさせている(ちなみに現在の彼女はアリアナ・グランデやウィークエンドを大成功に導いたリパブリックの重役である)。それに対し、残されたマックナスティ組はやがて契約を破棄されてしまう。当時のディラはジャスト・ブレイズやカニエのような音がコマーシャルな成功を収めている状況に刺激され、自身もメインストリームでの成功を思い描いていたというが、それも白紙になってしまったのだ。失意のディラは不安定な状態で作っていた『Ruff Draft EP』を反動的に自主リリースする一方、Jロックやマッドリブとの仲を温め、ジェイリブのアルバム制作へと気持ちを切り替えていった。
そんなストーンズ・スロウの面々との交流をきっかけにディラがLAに移り住んだのは2004年初め。この時点で免疫機能の異常を引き起こす難病を宣告されていたことは後から明らかにされたが、その治療や療養の目的もありつつ、ディラは新しい土地で己のキャリアを再構築しようとしていたのに違いない。そして……2006年の2月7日、32歳の誕生日を迎えた彼は、その3日後に天に召される。
闘病の傍らでひたすらビートメイクに励んだのだろうか、以前から多作だったというディラの仕事がどれだけ残されているのかは想像もつかない。そうした膨大な楽曲の数以上に世界中の音楽にとんでもなく大きな影響を残していったビートの求道者――そんなイメージが顕在化しているからこそ、彼が生々しい野心を燃やして綴った『The Diary』の意味も改めて捉え直してみたい。