68年5月の文化とゴダール、万博と岡本太郎
半世紀前のときを経てよみがえるもの
『1968[1]文化』の序言で編著者の四方田犬彦は以下のように記す。「政治を表象する文化があったのではない。文化が政治的たらざるをえない状況があったのだ」コミットするなどというなまやさしいものではない、かつてそこにはそこにいるものをいやおうなくまきこむ運動があり、文化にとってもそれはみすごせるものではなかった。美術、グラフィックス、演劇、写真、舞踏、音楽、ファッション、映画と雑誌(メディア)――それぞれの分野で状況に即座に反応したのはときに前衛と呼ばれ根源的とみなされる往々にして主流派に位置づけられないひとたちだったが、社会学的な統計をもとに彼らが多数でなかったからといってなきものにするのは官僚主義的な欺瞞にすぎない、と四方田は指弾する、その言に異論はない。むろん少数派であることはのちの世代の検証をむつかしくする。正史が記載しない歴史は歴史とみとめず、事実と歴史を改竄しながら涼しい顔の政府をいただく国においてはなおのこと困難で、1968年はこれまでも多くの関係者や研究者が1978、88、98、2008年と記念年ごとに活発な――とはいえないまでも――議論をこころみたが、きっかり半世紀経ったいまも総括の兆しはない。
そのようなことは不可能なのかもしれないしそもそも数語に還元できる真正性など存在しないのかもしれない。とはいえ私たちは1968から導く点状の思考を連ねそれらを線状にも面状にも組織することができる。そのうねりが現在時と交錯するさい派生する力動が1968の可能性の中心であることは『1968』の多角的な論考が示している。
上述のようにこの本は1968年から1972年の5年間をひとつの区切りに、戦後世界が激動した時代、この国の文化でなにが起こったか、分野ごとに考察を加えている。重視するのは美術や写真、グラフィックといったヴィジュアル分野で、それは写真や図版の掲示に100ページを優に超える紙幅を割いていることからもわかる。これまで思想と不可分の運動をとらえるにあたってはテキスト(エクリチュール)がその中核的な役割をはたしてきた。ヴィジュアルは状況を補足する挿画の位置で註釈の機能をおもに担ったが、本書では状況を読者へ無媒介に伝達する形式として、もしくはこれまでの価値観を顛倒する意図もあってか、視覚芸術に重点を置くかにみえる。記録するのではなく記述する。そもそも歴史の特異点であるこの季節は静的な記録になじまない、したがって表現もそれにともなう急進性な形式で書き記す必要がある。それゆえのアレ・ブレ・ボケであり、グラフィズムの革新であり、絵画的構図の否定であり、踊りの刷新であるとともにそれらは表現を集約する場をもたなければならない。『話の特集』や『週刊アンポ』などの総合誌、『ガロ』や『COM』などの月刊漫画誌、『季刊フィルム』や『シネマ69』などの刊行が60年代末に集中するのも偶然ではない。いまでは信じがたいことかもしれないがかつて雑誌がそのような力をもった時代があった。横尾忠則や粟津潔、杉浦康平らがそこから巣立った。刀根康尚などもそこに数えていいだろう。多彩な才能は相互に浸透していった。
更新したのは形式ばかりではない。60年代末、音楽では、たとえばビートルズの『サージェント・ペパーズ』はサイケデリックの潮流をつくり、ロックは大音量化しスタジアムへの道をあゆみはじめた。そこにPAの巨大化とアタッチメントをはじめとした周辺機器の多様化が寄与する。『1968』で稲増龍夫はGS(グループ・サウンズ)に世代間の軋轢をみるだけでなく商業主義と対抗文化の葛藤を読みとるが、フォークとロックが二重化した60年代は身体と技術の相克の時代でもあった。
ところが彼らは大きな揺り戻しにみまわれる。「人類の進歩と調和」を謳った1970年の大阪万博について椹木野衣は『1968』で転換点だとみなしている。国が国家プロジェクトの名のもと前衛=モダニティを飲み込みにかかった。そのことについてはむろん反撥もあった。前衛はひたすらに形式を進化させただけでなく、そこにひそむ制度、因習、慣例、特権性の再考をもうながしており、64年に終わった読売アンデパンダンはその好例だが、そのような突出した無名性は芸術を非芸術へ導こうとしていた。いずれそこには宮川淳のいうようにある種の逆説が働くのだが、芸術の消滅ないし対抗としての芸術はいまだ絵空事なのではなかった。それゆえのハンパク(反万博)であり、統計上日本人の半数が訪れた万博にたいしてそのような声があがったのは、2020年を前にした私たちは忘れてはならない。
参加者は国家プロジェクトに臨むにあたってそれぞれの事情を抱えていたであろう。全面的な肯定ばかりではなかったかもしれない。とはいえ彼ほどすべてを丸呑みしてそこに立ったものはいない。岡本太郎である。太郎の太陽の塔は万博が終わって半世紀ちかく経ったいまもまだ、更地に戻った万博記念公園の一角にある。今年3月には地下の地底の太陽と塔内の生命の樹を復元し、一般公開がはじまったのも記憶にあたらしい。再生にいたった経緯――後述の書籍『太陽の塔』に詳しい――にも政治に翻弄されるきらいがあり、さすがはあの岡本太郎の代表作だとの思いをあらたにするが、その思想を内側に濃縮するだけでなく外部へ、世界へと放射する太陽の塔のすぐれて文明批評的でありながら特定の美学に傾かない在り方は1968年から半世紀経ったいま再考に値するのはまちがいない。そもそも太郎は万博のテーマ館のプロデュースをひきうけたにもかかわらず万博のスローガンを否定している。すなわち、一番のハンパクは太陽の塔だよ、オレは進歩と調和なんて大嫌いだ――有言実行の証として太陽の塔は丹下健三の空中庭園を突き破り、地上70メートルの高さで万博の玄関口である調和の広場に屹立した、その外観は大気をキャンバスに作者特有の原始的な筆致を遊ばせるかのようであり、形態は不均衡な均衡のなかにもちこたえているかにみえる。オブジェクトとも建築ともつかない造形物はその偉容で万博のシンボルとなったが、細部と背景を知れば、おそらく制作の唯一のモチベーションだった太郎のいう「ベラボーさ」は記号性を超えて躍動する。平野暁臣の手になる『太陽の塔』は丹下のもとで太陽の塔にかかわった磯崎新への取材をはじめ、当時の関係者と資料を精査し、塔の成立の過程と、地下、塔内、空中といったテーマ館としての太陽の塔にこめた太郎の思念を丹念にたどるだけでなく、A4変形の判型にたっぷりの図版は岡本太郎というたったひとりの民族の民族誌の趣がある。なかでも平野の論考「太陽の塔はなぜ生まれたのか?」には目がさめる思いがした。「(太陽の塔には)最初から意味なんてなかったし、なにかを表現したいとも考えていなかった。つまり、本人ですらなにを表現したいかわからなかった」そう平野は述べるが、そのことは概念の不在よりもすべてをつつみこむ作品の懐の巨大さの理由の一端であるかのようである。空白とも余白ともいえるものは語りを導き、太陽の塔はやがてドキュメンタリー映画『太陽の塔』に実を結ぶのだが、ここでは中沢新一や西谷修、赤坂憲雄、安藤礼二、並河進らが、おのおのの知見で太郎の創造の起源に迫っている。いや迫るのではなく、ことばをもちより、映画の時間のなかでそれらが交歓するなかにいまここからみえる太陽の塔がうかびあがる、その像は1970年当時と重なりはするが、311はいうまでもなく、何度かの歴史の切断線を越えながら、生権力というより自発的隷従――この国の場合、封建的父権性としてのオイディプスコンプレックスを加味する必要もあるかもしれない――にとらわれている私たちの生をそのとき以上に激しく鼓舞することになる。東北と沖縄、縄文と弥生、熊楠と粘菌とアメーバと曼荼羅、国家というより列島の呼称がふさわしい太郎の国家観、歴史観の根っこにはパリ時代のモースやバタイユやブルトンやレリスとの交流があるが、60年代後半を中心にバタイユが広く日本に紹介されたのと太郎の活動は同期していたとこの映画を観てあらためて私は思った。『1968』で四方田が象徴としてとりあげる東映ヤクザ映画やATGしかり、おそらくこの時代にはエロス+死の観念が充満していた。