「H.E.R.は、私が楽曲制作に対してもっと正直になれるように匿名性を強調して作り上げたアーティスト。匿名のキャラクターではあるけど、中身は私そのものよ。私の別人格ではないし、活動のために改めて発明した人格でもない。誰もが共通して陥るような困難な状況や、人間関係をどううまくやるか、逃げ出したい時にどう対処すべきか――そんな状況を、私の中の私が歌で表現しているような感じ。自分の中にはいろんなヴァージョンの自分がいるけど、それは全部ひとつの〈私〉。それを音楽で余すことなく表現したのがH.E.R.なの」。
先日の第61回グラミー賞にて主要4部門中の2部門(新人賞と年間最優秀アルバム)を含む計5部門にノミネートされ、〈最優秀R&Bアルバム〉と〈最優秀R&Bパフォーマンス〉の2部門を受賞したH.E.R.(ハー)。ノミネート時点で「私のアルバムは実質EPなわけで、よく考えたらヤバいし、恵まれていると思う」とコメントしていた彼女だが、ここ数年の活動が時流に感応して実を結んできた結果、同世代のエラ・メイらの飛躍にシンクロするように、俄に彼女の存在がフォーカスされるようになってきたのは間違いない。
それに伴って若干の時差もありつつ評価を高めたのが、2017年に配信/LPで発表されていた『H.E.R.』である。同作は2016年の初EP『H.E.R. Vol. 1』と、続く『H.E.R. Vol. 2』、そして『H.E.R. Vol. 2 –The B Sides』(共に2017年)の3連作をコンパイルしたもの。そこからの代表曲“Focus”(2016年)やダニエル・シーザーとの“Best Part”(2017年)が本国で大きな結果を出したのも昨年になってからだった。ゆえに、今回その『H.E.R.』が日本独自にCD化されたのは満を持しての好機というわけだ。
もともと弱冠14歳でメジャー契約を獲得した天才少女、ギャビー・ウィルソンとしての経歴は公然の秘密ながら、そうでなくても彼女のトラディショナルな資質が現代的なものとして発露されるにはピッタリのタイミングだったのだろう。アンビエントな音空間のデザインやトラップ経由のリズムが汎ジャンル的な大前提となっている現在、R&Bの根幹にある歌唱やメロディーメイクの作法は90年代~00年代初頭のフィーリングを湛えた〈らしさ〉へと回帰している。カヴァー・バンドで演奏する父親の影響で幼い頃からトラディショナルな定番に親しんできたH.E.R.の資質は、“Losing”におけるアリーヤ節の引用や、“Wait For It”でのフロエトリー“Say Yes”のネタ使いなどを例示せずとも、当代きってのR&B職人たるダリル・キャンパーの貢献もあって、ナチュラルな持ち味として引き出されているのだ。
「楽曲をリリースすることに対して、フラストレーションや不安な気持ちはあったわ。私はとても正直な気持ちで曲を作っていて、自分のやり方で自分のストーリーを落とし込んでいたけど、当時は18、19歳だったから、〈曲を通して何を表現すべきで、そこにどんな意味を込めるべき?〉って悩んでいた。でも、制作の過程でその答えを見つけたって感じ。リスナーには、顔や名前は別として、私のありのままを感じて受け入れてもらえればいいんだ、って。そう思ったらスッキリした気持ちで制作に取り組むことができたし、いまはそれ以上の手応えを感じているわ。EPを出してから本当にいろんなことが起きて、しかも、すべてオーガニックな形で起こったのよ。だから、自分の決断が間違ってなかったことを証明できたと思っている」。
ゴールドリンクやカリード、エラ・メイらとのコラボも注目された昨年には新たなEPシリーズ〈Used To Know Her〉がヒット済み。この先にはいよいよ、以前から予告されている正式なファースト・アルバムの姿も見えてきそうだ。
「正直、いまもゴールを探している。まだ将来を模索している途中で、次に向かうべき目標を見定めているところね。2年前はグラミーにノミネートされることがゴールだったけど、もうそれは手に入れている。私はただ音楽が好きだから、もっとたくさん曲を作って、ライヴもして、より多くの人に私の曲を聴いてもらえるようになれれば、他の目標も見えてくるかもしれない」。
〈Having Everything Revealed(すべてを明らかにする)〉の頭字語を名乗りながらも顔出ししないイメージ戦略を並走させ、その謎めいたアーティスト性を築き上げてきたH.E.R.だが、そのさらなる魅力はここから明らかになっていくことだろう。
H.E.R.
本名ガブリエラ・ウィルソン。97年生まれ、カリフォルニア州ヴァレホ出身のR&Bシンガー。フィリピン系の母親とアフリカ系の父親を持ち、音楽に親しんで育つ。2009年に出演したコンテスト番組「Radio Disney's The Next Big Thing」で注目を集め、MBKに見い出されて2012年にRCAと契約。2014年にギャビー・ウィルソン名義の“Something To Prove”でデビューする。2016年に現名義での初作『H.E.R. Vol. 1』で脚光を浴びてコンスタントにEPを重ね、翌年にはEP収録曲をまとめた『H.E.R.』をリリース。2018年にはエラ・メイやカリードとの共演も話題となった。グラミー5部門ノミネートを受けて、先述の編集盤『H.E.R.』(RCA/ソニー)がこのたび日本独自CD化されたばかり。