活動再開後、初の全国流通盤となる中篇アルバム。シルキーなAORとして享受できる“ノヴァ・エチカ”のような(比較的)親しみやすいナンバーもあるのだが、複雑怪奇なメロディーとハーモニーの応酬が聴き手を翻弄し続ける楽曲が並んでおり、彼らの寄る辺ない個性がより際立った印象を受ける。不穏な電子音で幕を開ける“三世紀”の凄まじさたるや! この掴みがたい精緻な音の先に新たな日本語ポップスが垣間見える。

 


GUIROの超超超待望の新作がリリースされた。タイトルは『A MEZZANINE(あ・めっざにね)』 。謎めいた題の本作の内容について踏み込む前に、いちファンの視点から、ここ最近のGUIROの活動について簡単に振り返ってみよう。

GUIROは髙倉一修を中心とする名古屋のバンドである。ベーシストの厚海義朗がメンバーであり、ceroが尊敬しているバンド、というふうに知っている人もいるかもしれない(両者は2017年にも名古屋CLUB QUATTROで対バンしている)。大傑作のファースト・アルバム『Album』がリリースされたのは2007年。また、のちにアルバムとして結実する8cmシングルCDの連作『あれかしの歌/目覚めた鳥』『エチカ/日曜日のチポラ』『ハッシャバイ/いそしぎ』『山猫/イルミネーション・ゴールド』を発表していたのは2003年から2005年にかけて(僕は『Album』から知ったので、当時のことはもちろん知らない)。めったにライヴをやらないこと、作品の少なさ、そして何よりその誰にも似ない音や詞から、神秘的なイメージすら持たれていると言っていい。

GUIROが近年活動を活発化させたきっかけは、2016年のことだと思う。4作のシングルが7インチ盤としてリイシューされた。それ以前にも名古屋を中心に散発的にライヴをやっていたようだが、この年は東名神3都市で演奏。僕が初めて彼らを生で観たのも、このときの新代田FEVER公演だった。しとしとと春雨が降る4月に観た、その日の演奏のことは忘れられない。

翌2017年には10年ぶり(!)の新作にして3曲入りシングル『ABBAU』を発表。CDと7インチ盤が微妙に時間差で発売されたことで、高円寺のAmleteronへ2回買いに行ったことをよく覚えている。表題曲“アバウ(Pt.1)”は、北園みなみ(現Orangeadeの大沢建太郎)が弦の編曲を担当。本当に素晴らしく、10年間の空白を埋めて余りある名曲だと思った。でも、気に入ってよく聴いていたのは、ランバート、ヘンドリックス&ロス“With Malice Toward None”(62年)のカヴァー/翻案である“旅をするために”だったりもする。

そんなGUIROの2019年は、〈森、道、市場〉への出演、東名阪の〈中二階TOUR〉の開催、そして最初に書いたとおり、新作のリリースで始まった。ライヴもできる限り目にしておきたいところだけれど、やっぱり驚かされ、うれしく思ったのは新作を聴けることだった。収録曲には最近のライヴで披露されていた楽曲もある。だが、こうして作品としてまとめられ、世に問われることにはそれなりの意味があると思う。

……というわけで、ようやく『A MEZZANINE(あ・めっざにね)』 の話ができる。

5曲入りの本作のオープニングを飾る“三世紀”は、冒頭からGUIROのファンをあっと驚かせるだろう不穏なエレクトロニック・ファンクだ。チープなリズムボックスのビートの上に、よじれたリズムで歌い、語り、ラップする髙倉の声が乗っていく。どこか80s細野晴臣風でもあるこの曲を聴いて、髙倉がYMOから強い影響を受けていることを思い出し(“あれかしの歌”はYMO“ジャム”へのオマージュ)、これもGUIROというバンドにとって自然な展開なのかもしれない、とふと気づく。アウトロではトラップの808っぽいハイハットが打ち鳴らされ、シームレスに2曲目へとなだれ込む。ものすごい緊張感だ。

2曲目の“ノヴァ・エチカ”は『Album』の収録曲で、彼らの代表曲の一つと呼ぶべき“エチカ”のリアレンジ・ヴァージョン。〈ノヴァ〉、つまり〈新しい〉という形容詞が与えられた“エチカ”からは、コンテンポラリー・ジャズの文法が感じられる。遅れ気味のビートとリズム、そしてクリス・デイヴ風のがしゃがしゃとしたハイハットの音……(ドラマーは光永渉)。GUIROの最重要曲がフレッシュによみがえっているが、気だるげな髙倉の歌やコーラス・ワークはどこか不機嫌で、憂うつさすら感じさせる。

サンバを解体したかのような“祝福の歌”は、本作で唯一の厚海による作曲。90年代のカエターノ・ヴェローゾやレニーニ&スザーノの音楽を、GUIROという身体を通して鳴らしたかのよう印象だ。左右にパンニングされたスネア・ドラムとパーカッション、フルートとサックスの重なり合い、太いシンセ・ベースなどが組み合わされた奇妙なアレンジメントが、彼らの音楽の特異性をそのまま伝えている。

髙倉が2016年にTwitterでデモ(なんと96年録音?)を公開していた4曲目の“銀河”。これもブラジル音楽からの影響を強く感じさせる曲だ。ざらついたテクスチャーのパーカッションが鳴らされるなか、髙倉の歌と大場ともよのコーラスが中心となっている前半から一転、後半ではドラムがテンポの速いサンバ・ビートを叩き、高揚感と祝祭的なムードを強めていく。

アルバムの最後は、リラクシンでジャジーな“東天紅”。“旅をするために”の続編とも、GUIROなりのマヒナスターズへのオマージュとも言えそうなコーラス・ソングで、ラップ・スティール・ギターの響きが親密さと脱力感を醸す。ちなみに、〈東天紅〉というのは鶏の鳴き声のこと(作詞は田代万里子となっているが、残念ながらどんな方なのかはまったくわからなかった)。

〈新版エチカ〉も含め、これまで数少ないライヴの場で少しずつ披露されていた〈いま、そして未来のGUIRO〉を提示する中篇アルバムとなった『A MEZZANINE(あ・めっざにね)』。GUIROの最大の魅力のひとつだといっていい髙倉の言葉(個人的に、彼は日本でもっとも優れた作詞家の一人だと思っている)についてはまだまだ読み込むべき余地が残されているが、音楽の面についてはざっと、以上のような感想を持った。

先日、GUIROの貴重な東京でのライヴが代官山の晴れたら空に豆まいてで行われた。ツアーの1日目であり、僕はもちろんチケットを買っていたのだが、残念ながら取材が入ったために、アンコールの2曲しか聴くことがかなわなかった。ところで、ツアー・タイトルの〈中二階〉ってどういうこと?と思っていたら、本作のタイトル〈mezzanine〉がラテン語で〈中二階〉を意味するらしい。確かに、アルバムを聴いても〈中二階〉という中途半端な場所に取り残されたままサスペンドされるような感覚を覚える。ちなみに、前シングルに掲げられた〈Abbau〉とはドイツ語で〈解体〉〈脱構築〉という意味なのだが、こうした知的な、かつどこか遊び心とはぐらかしが含まれているような髙倉の言葉の感覚に、僕はどうしても惹かれてしまう。

というわけでまだまだ謎が多く、収録曲数以上の厚みを感じるアルバムと思う。現在ライヴ会場や限定店舗のみで販売されている本作の全国流通は、7月10日(水)から。

*追記
“東天紅”を作詞している田代万里子は、モノポリーズのヴォーカリスト〈があこ〉であるというご指摘を読者からいただいた。ありがとうございました!