ジョアンの永遠の存在を信じて
2003年9月のその日、東京国際フォーラムのステージに開演時間より1時間以上も遅れて現れたジョアン・ジルベルトが演奏を始めた。遅れることにさして驚きもせず予測済みだった僕たちも、もとより定刻には席に着いてなどいなかったのだが、いよいよ目の当たりにするジョアンから湧き起こる音楽の、想定を遥かに超えた美しさと艶やかさに息をのんだ。演奏の開始からほどなくすると、少し湿り気を増して温もった会場の空気が手首をそっと撫でてくる。ギターを弾きながら、一人の老いた男が歌を唄っているだけなのに、実際はもっとたくさんのことが起きているように感じられ、ホールの天井が青空に変わって柔らかな日差しが舞い降り心地よい風が吹き込んできたようだった。僕の周りでは、背中を丸め、靴を脱いで膝を抱え込み幸せそうにしている女の子や、小さな声でハミングなのか歌詞なのかわからない程度に一緒に唄っている人もいた。皆それぞれが、待ちわびたその瞬間に自分を解き放って、日蝕や流星群や、見たことはないけど多分オーロラを見上げる群衆のように心奪われ、引き込まれていた。5,000席の観客はその場を共有できる喜びに浸りきってしまっていて、僕もすぐに周囲の他人の様子を注視する雑念は消えてしまった。その昔、救世主が起こす奇跡を目の当たりにした人たちは、きっとこんな感じだったのかもしれないと思った。
かつて、有名なスタン・ゲッツとの共演盤で慣れ親しんだ、インテリジェンスとロマンスの香り高いボサノヴァに魅了されていた僕は、1986年に発売された『ライヴ・アット・モントルー』というアルバムによって新たな衝撃に出会うことになる。インターネットや画像配信のないあの時代、80年に製作されたブラジルのテレビ用録音をライヴ盤にしたものがあったとは言え、ドラムもストリングスも入らない、ギター一本のみの弾き語りによってすべてを充足させ、永遠に聴いていたいほどの陶酔感に溢れる空気で大観衆をとりこにしてしまうジョアン・ジルベルトの魔法をあらためて実況盤として知ったからだ。それは精密にアレンジの施された伴奏付きのレコードより儚く、同時に力強かった。何をどうやったらそんなにギターも歌も間違えずにぴったり寄り添い支え合うのだろう、と不思議で仕方なかった。
彼のギターの奏法は、右手の親指を他の指から少し離し気味にして、手首から親指の先までがほぼ真っ直ぐのラインとなり、他の指がギターの弦に直角に当たるようなスタイルだ。こうすると、親指は原始時代から人間が手指の進化の主題としてきた〈摑む〉、あるいは〈摘む〉動作から解放され、独立性を保つことができる。その親指で、4分の2拍子の拍を正確に刻む。他の指たちが紡ぐリズムは、この正確な拍節=時間軸とは別の、先走ったり、跳ねたりする運動を自由に行う。サンバで使用されるスルドという大太鼓と、パンデイロ(タンバリン)のリズムを親指とその他の3本の指(人差し指、中指、薬指)で分担していると言われるが、さらに言うとすれば、ジョアンのギターの革新性はそのサンバのリズムの躍動感を最小限の音によって表現し尽くしたことにある。
譜例のaはいわゆるボサノヴァの基本形、b1とb2はそこにより強いサンバ感が加わったもの。そしてcはマルシャという行進曲系のリズム。ここで注目して欲しいのは、下向き符尾の、親指で弾かれる四分音符に対して、上むき符尾のその他の指で弾く3声の和音には、付点8分音符やタイで結ばれた16分音符と8分音符、いわば16分音符が3つ分の長さの音が頻出するということだ。4分音符は16分音符4つ分なので、ここでは2(8分音符)や4という偶数と3という奇数の長さの音符が同時発生していることになる。ジョアンの初期のアルバムにおいて打楽器に聴かれるdのパターンも、ブラシやハイハットなどで刻まれる4つの16分音符のグループを、カッ、カッという硬質な音のクローズド・リム・ショットなどが3つ分ずつ切り分けて行く手法。これがもし、よくあるeのようにシンプライズされてしまうと、真ん中に聞こえる偶数のカウントが必要以上の安定感、あるいは完結感をリズムにもたらしてしまうため、風が吹いているような、そして浮遊しているような感覚は失われてしまう。
込み入った説明になってしまったので、上の段落を飛ばしてもらっても良いように要約すると、ジョアンのギターがそれまでのギターとまったく異なるのは、偶数(2、4拍子)と奇数(3拍子)の拍節が同時に感じられて、かつ演奏が困難になりすぎない程度に簡略化されたコロンブスの卵的リズム・ユニットを発明したことにある。僕には、信号機の色を青(緑)と赤の2色に最初に決めた人に匹敵するくらいの大発明に思われる。
表現されるリズムがソフィスティケイトされていればいるほど、絶対不動のビートを、つまり〈タイム〉を刻み出す親指の独立性が重要となるし、親指が独立すると、人差し指、中指、薬指の自由度も向上する。なぜかわからないのだけれど、僕にとっても経験上そうなのだ。それぞれの指が自在になると、ハーモニーの立体感が浮き立つ。各弦に個別のヴァイブレーションが伝わるからではないかと僕は考える。そしてジョアンのギターの透明な色彩感は、どことなく、クラシック・ギターの巨匠、アンドレス・セゴビアのギターの鳴らし方を想起させるものでもある。
画期的なギターのリズムにのせられる歌もまた伸びやかだ。語り唄いのようでありながら、デリケートな音程で進行する旋律やハーモニーの特徴を表すフレーズでは正確無比の音感を発揮し、言葉に含まれる子音のパーカッション効果までが計算されたような歌詞の発音、とても同一人物が同時に行なっていると思えないほどギターのリズムにとらわれない闊達なアーティキュレーション。そんなジョアンのソロ・パフォーマンスの変遷は、上記の『ライヴ・アット・モントルー』以後、『アコースティック・ライヴ~あなたを愛してしまう~』と『ライヴ・アット・ウンブリア・ジャズ』という90年代の2枚のライヴ盤を経て、初来日を記録した2004年発売の『イン・トーキョー』まで辿ることができる。ギターの奏法が枯淡の境地を迎え、より少ない音による、より深淵なスペースを獲得した後年には、歌も小節線をはみ出して伸び縮みするようになる。
また、歌のシンコペーションはなだらかな3連音符へと近づき、よりギターとの間に、緊密なすれ違いを見せるようになる。
去る7月6日に、とうとう地上から姿を消してしまったジョアン・ジルベルトの不在を慰めるかのように、2006年来日時のライヴ映像がBlu-rayディスクとなって発売される。そこに記録されているのは、聴き慣れた得意のレパートリーが晩年に到達した境地だ。“エスタテ”や“白と黒のポートレート”では、冒頭ギターは時の流れを提示するのみ。しかし音と詩の行間は切実な沈黙と囁きに満たされる。ギターのハーモニーが取り残されるほど早口で過ぎ去ってしまう節回しの曲や、その早口に合わせて往年より小節を切りつめられた曲、そのどれもが少しかすれた、しかしながら高音の輝きを失わない老境の声と水墨画のようなギターによって信じられないような高みへと昇華させられている。50年近くもの間歌い続けて来ていたであろう“デサフィナード”の、数多くある録音の中でも一つのベストではないかと思われる歌唱の直後、熱狂する観客と、何かに感謝を捧げるような表情を見せつつ中指を掻き続けるジョアン。最後に舞台からさっていく彼がまさしく〈ボサノヴァの法王〉そのものにしか見えなくなってしまう、奇跡の映像だ。8月24日からロードショーとなるジョルジュ・ガショ監督の「ジョアン・ジルベルトを探して」とあわせてみていただければ、あなたはきっとリオ・デ・ジャネイロのどこかに潜むジョアンの永遠の存在を信じるに違いない。
João Gilberto(ジョアン・ジルベルト)[1931-2019]
1931年ブラジル北東部バイーア州ジュアゼイロ生まれ。ブラジルの歌手、ギタリスト。作曲家のアントニオ・カルロス・ジョビンや作詞家のヴィニシウス・ヂ・モラエスらと共にボサノヴァを創成したとされている。1963年の“イパネマの娘”が世界的に大ヒット。2000年初のアルバム『ジョアン 声とギター』を、カエターノ・ヴェローゾのプロデュースで発表。2003年には70代で初の日本公演で来日。2004年、2006年にも来日し、国際フォーラムを始め各地のチケットは連日完売した。
寄稿者プロフィール
鈴木大介(すずき・だいすけ)
武満徹に〈かつて聴いたことがないようなギタリスト〉と評され、バロックから現代に至るまでの多岐にわたるレパートリーと共に作編曲も手がける演奏活動を行う。12月18日に東京文化会館小ホールでこれまでに初演した日本のギター作品と、渡辺香津美、西村朗による新作初演によるコンサートを予定。最新録音は『The Best 2019』。
FILM INFORMATION
映画「ジョアン・ジルベルトを探して」
監督・脚本:ジョルジュ・ガショ
音楽:ジョアン・ドナート
登場人物:ジョルジュ・ガショ/ガリンシャ/アンセルモ・ホシャ/ホベルト・メネスカル/マルコス・ヴァーリ/ハケル/ミウシャ/ジョアン・ドナート/ジェラルド・ミランダ/オタヴィオ・テルセイロ/マクシミリアン・ジモニシェック
配給:ミモザフィルムズ(2018年 スイス・ドイツ・フランス 111分)
◎8 /24 (土)より新宿シネマカリテ、YEBISU GARDEN CINEMA ほか全国順次公開
joao-movie.com/
©Gachot Films/Idéale Audience/Neos Film 2018
Brazilian Musician's LIVE INFORMATION 2019 Summer ~ Autumn
ジョアンとジョビンが大きな影響を与えたブラジル音楽の“今”が続々と日本にやってくる!
エドマール・カスタネーダ/ヤマンドゥ・コスタ
○8/20(火) 8/21(水) 8/22(木) 会場:ブルーノート東京
www.bluenote.co.jp/jp/artists/edmar-castaneda/
ジョイス・モレーノ sings “ボサノヴァ・ソングブック” with special guest ゼ・ヘナート
○9/6(金)9/7(土) 会場:コットンクラブ
○9/8(日) 会場:モーション・ブルー・ヨコハマ
○9/12(木)9/13(金) 会場:ブルーノート東京
www.bluenote.co.jp/jp/tour/joyce-zerenato-2019/
アンドレ・メマーリ André Mehmari Piano Solo
○9/13(金) 会場:東京・めぐろパーシモンホール 小ホール
○9/15(日) 会場:滋賀・フィガロホール
t.livepocket.jp/e/andremehmari2019
トニーニョ・オルタ Toninho Horta featuring Diana Horta Popoff
○9/20(金) 会場:神戸・100BAN Hall
○9/22(日) 会場:山形・文翔館議場ホール
○9/24(火) 会場:ブルーノート東京
○9/27(金) Diana Horta Popoff SOLO 会場:Praça Onze
latina.co.jp/ToninhoHorta_DianaHortaPopoff/event.html
マリーザ・モンチ MARISA MONTE JAPAN TOUR 2019
○10/14(月・祝) Montreux Jazz Festival Japan 2019 会場:日本橋三井ホール
www.montreuxjazz.jp/
○10/16(水) 会場:ZEPP NAGOYA
○10/17(木) 会場:Zepp Osaka Bayside
montreuxjazzfestivaljapan.zaiko.io/_item/317057
FESTIVAL de FRUE 2019 トン・ゼー Tom Zé, クアルタベー Quartabê
○11/2(土) 11/3(日) FESTIVAL de FRUE 2019 会場:つま恋リゾート 彩の郷
frue.jp/festivaldefrue2019/
○10/31(木) Tom Zé Japão Tour 2019 会場:三鷹市公会堂光のホール
/frue.jp/tomze2019/