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知る人ぞ知る音楽家ピーター・ゴールウェイ

――前進バンドのストレンジャーズでの活動を経て、ピーター・ゴールウェイたちはフィフス・アヴェニュー・バンドとして69年にレコード・デビューしました。アメリカでの評価はどうだったのでしょうか?

THE FIFTH AVENUE BAND 『The Fifth Avenue Band(タワーレコード限定)』 ワーナー(2020)

長門「フィフスはプロモーションやライブをやったけど、まったく売れなかった。もちろん、ローラ・ニーロやニール・ヤングの前座をやっていたから、演奏を聴いた人はいただろうけどね。

一部には熱心なファンがいるんだよ。たとえば、ゲス・フーのバートン・カミングス。彼は当時からフィフスのファン。フィフスのマレイ・ワインストックとプラノトーンズで一緒だったデヴィッド・フォアマンの曲もカヴァーしているし、ライブでフィフスの曲を歌っている。NY周辺、東海岸の一部では、多少知られていたんだと思う」

バートン・カミングスの79年作『Dream Of A Child』収録曲“Dream Of A Child”。原曲は76年のデヴィッド・フォアマンの楽曲

谷口「アメリカは東と西で文化がちがいますからね。じゃあ、知る人ぞ知る存在だったんですね」

長門「ピーターはメインのソングライターだったから、フィフスが売れなかったことで落胆も大きかったと思う。その後LAに移ったのは、気分転換も兼ねていたんじゃないかな。ただ、そこで『Ohio Knox』(71年)と『Peter Gallway』(72年)を作ったけど、それも売れなくて……。ピーターはこの3枚を出したあとに、ブランクがあるんだよね」

OHIO KNOX 『Ohio Knox(タワーレコード限定)』 ワーナー(2020)

PETER GALLWAY 『Peter Gallway(タワーレコード限定)』 ワーナー(2020)

谷口「ハイセンスだとは思うんだけど、やっていることが早すぎるんですよね(笑)」

長門「失意のなかNYに戻るのもためらいがあったんだろうね。それで、ちょっと離れたポートランドに引っ越して、腰を落ち着けてシーンに根を張って、ローカルでは知られるようなミュージシャン/プロデューサーになっていく。その後は割と多作だね」

谷口「こうやって日本にファンがいることもモチベーションになったんでしょうね」

 

長門芳郎の勘違いから始まったピーター・ゴールウェイの復活劇

長門「ちなみに、2作目のオハイオ・ノックスについては〈フィフス解散後にピーターが結成したバンド〉なんてよく書いてあるけど、あれはまちがい。ピーターの変名なのね」

谷口「ピーターは〈オハイオ・ノックスさん〉っていうことですね」

『Ohio Knox』内ジャケット

――『Ohio Knox』の内ジャケにはそれぞれの変名が載っていますね。

長門「ルールがあって、みんなファースト・ネームが〈O〉から始まるわけ。たとえば、ポール・ハリスは〈オスカー〉。それで、僕は集合写真で顔を隠している人がジョン・セバスチャンだと思っていたんだけど……」

谷口「たしかに似てる(笑)」

長門「当時の僕は、スプーンフルの“Summer In The City”(66年)を共作したジョン・セバスチャンの弟のマーク・セバスチャンとピーター・ゴールウェイを同一人物だと思っていたの。ジョン・セバスチャンとピーターは作る曲が似ているし、歌い方も似ていたからね。

ラヴィン・スプーンフルの66年作『Hums Of The Lovin’ Spoonful』収録曲“Summer In The City”。作曲はジョン・セバスチャン、マーク・セバスチャン、スティーヴ・ブーン

だから、77年に〈ローリング・ココナツ・レビュー〉で来日したジョン・セバスチャンに〈ピーター・ゴールウェイはあなたの弟のマーク・セバスチャンですよね?〉って訊いたんだ。そうしたら、〈ちがうよ。ピーターはいまメイン州のポートランドで音楽をやっているよ〉って返されて(笑)。

そのインタビューが木崎義二さんの『ポプシクル』誌に載って、それを読んだ吉峰(譲)くんというファンがメイン州のライブハウスに〈ピーターを探しています〉って手紙を書いたんだよ。そうしたら本人から返事が返ってきて、しかも制作中の『On The Bandstand』(78年)のデモ・テープも送ってきてくれた。それをヴィヴィド・サウンドに持ち込んだらレコードを出すことが決まり、それに合わせてトムス・キャビンが78年11月の初来日を企画したんだ。『On The Bandstand』はその後、内容を変えて『Tokyo To Kokomo』(79年)としてアメリカでリリースされた」

谷口「ジャケットでピーターがはっぴを着ているやつですね。じゃあ、日本での最初の再評価、リバイバルは77、78年頃だったわけですね」

長門「うん。僕の勘違いがなければ、彼は日本に来ていなかっただろうね。

来日したピーターを、ブレッド&バターのプロデュース中だった細野(晴臣)さんのレコーディング・スタジオに連れて行ったこともあった。細野さんの『トロピカル・ダンディー』(75年)や『泰安洋行』(76年)の曲をカセットで聴かせたら、彼がすごく興味を持っていたから。そのときのインスピレーションで、ピーターは『Tokyo To Kokomo』に収録されている“Tropical Dandy (For Haruomi Hosono)”を書いたんだ」