アリーヤやティンバランド&マグー、タンク、ジョジョら多彩な才能による素晴らしい作品を世に送り出してきた名レーベルがついに再起動……長らく封印されていた往年のカタログ群が現在の音楽シーンに放たれることとなった。今回はその濃厚な歴史と作品を紹介しよう!
その悲劇的な死から20年を経て、不世出のアーティストによる素晴らしい音源がふたたび日の目を見ることになった。〈プリンセス・オブ・R&B〉として愛されるアリーヤ……プログレッシヴでスウィートなR&Bの表現者として、あるいは類稀な魅力を備えたポップスターとして、近年のドレイクやソランジュらを筆頭に、クリス・ブラウンやウィークエンド、ジェネイ・アイコなどなど数多くの後進たちを経由して現代の音楽シーンにインフルエンスを与え続けている存在だ。そんな彼女を送り出したことで知られるレーベル=ブラックグラウンドの長らく廃盤状態になっていたカタログが、この機会に封印を解かれることになった。ブラックグラウンド2.0として再始動したレーベルがエンパイアとパートナーシップ契約を結び、アリーヤのみならずティンバランド&マグー、タンク、トニ・ブラクストン、ジョジョ、アシュリー・パーカー・エンジェルらの過去のタイトルがさまざまな形態でリイシューされることになったというわけである。
そもそもブラックグラウンドとはバリー・ハンカーソンと息子のジョモによって93年に設立されたマネジメント/レコード・レーベル。もともとブラックグラウンド・エンタープライズと名乗っていた同社は、グラディス・ナイトと結婚していた時期もあって長くエンターテイメント業界に身を置いてきたバリーが、自身の姪にあたるアリーヤを世に出すにあたって設立したプロダクションであった。その段階までにバリーがマネージメントを手掛けていたのは、コンテンポラリー・ゴスペル・グループのワイナンズやR&Bシンガーのデヴィッド・ピーストン、そしてR・ケリーといった面々。当初はアリーヤのメジャー契約を獲得すべく奔走したというバリーだがその時点ではうまくいかず、ブラックグラウンドにレーベル機能を持たせてジャイヴ経由で作品を出すことにしたそうだ。
そうしてジャイヴからリリースされたアリーヤのファースト・アルバム『Age Ain’t Nothing But A Number』(94年)はまだ若い彼女の才能を一躍世界に知らしめることになった。その成功を踏まえた次のステップへ進むにあたってバリーは新たにブラックグラウンドをアトランティックと契約。初作でのイメージを新たに塗り替えるプロデューサーとして、当初はショーン“パフィ”コムズに白羽の矢を立てたようだが、紆余曲折あって結果的には世間でほぼ無名だったティンバランドを抜擢することになった。このマッチアップがその後のR&B/ヒップホップにおけるサウンド・スタイルを大きく変革することになったのである。
現在に至るまで世界的なトップ・プロデューサーとして君臨しているティンバランドだが、当時はジョデシィのディヴァンテ・スウィングが組織したスウィング・モブという音楽集団で経験を積んだ駆け出しだった頃。ティンバランドとマグー、プレイヤ、ジニュワイン、そしてミッシー・エリオットらの若い才能たちを抱えてレーベルとして動いていたスウィング・モブだったが、その構想は結果的に頓挫し、所属していた面々は宙に浮いた存在となってしまう。そんなタイミングで彼にアプローチしてきたのがブラックグラウンドだった。アリーヤがティンバランド × ミッシーのデモ音源を気に入ったことで話は進展し、96年に彼女のセカンド・アルバム『One In A Million』が登場したのだった。
その進歩的な音楽性や商業的な成果も受けてブラックグラウンドはティンバランド&マグーやプレイヤ(アルバムはデフ・ソウル経由で発表)と契約し、ソロで他メジャーと契約したジニュワインやミッシー・エリオットの活躍とも相互に作用しながらティンバランド・ファミリーとして大きなうねりを生み出していく。
2000年にバリーはヴァージンと契約し、アリーヤの“Try Again”で初の全米1位を獲得。翌年には渾身のサード・アルバム『Aaliyah』でこちらも全米1位に輝いている。それに先駆けては98年に契約した男性シンガーのタンクのデビュー作もヒットさせており、ブラックグラウンドは順風満帆に拡大していくはずだった。そんな折に起こったのがアリーヤの事故死だったのだ。あまりにも残酷なタイミングでの幕切れではあったが、それでもブラックグラウンドは続いていく。そうでなくても00年代前半には西海岸ラッパーのキャヴィー(キャヴィア&オーヴァードーズ)やラップ集団のアウトサイダーズ4ライフ、ティンバランド制作でシングルを残したシンシアなど、新たなスターを送り出そうという動きは見え隠れしていた。ただ、当然ながらアリーヤに代わってレーベルの勢いを盛り上げるようなアーティストが生まれてくることはなかった。
ティンバランドが自身のレーベル展開を外部でスタートし、タンクがレーベル・カラーに頼らないステイタスを手に入れつつあった2003年、ブラックグラウンドはヴィンセント・ハーバートを介してティーン歌手のジョジョと契約し、レーベルのイメージをポップに更新しながら新たな道を模索していく。大物のトニ・ブラクストンを迎え入れ、ボーイズ・グループのO・タウン出身のアシュリー・パーカー・エンジェルをかつてないロック・サウンドで送り出し、ガールズ・グループのLAXガールズとも契約を結んだ。一方でプレイヤの一員として活躍しつつソングライターとしても活躍していたスタティック・メジャーが改めてソロ契約を結ぶのだが、彼もまたファースト・シングル“I Got My”を発表した矢先の2008年2月に32歳の若さで病死してしまった(翌月に彼が客演したリル・ウェインの“Lollipop”が全米No.1を記録している)。以降もティンバランドがインタースコープで出した作品にはバリーのクレジットやブラックグラウンドのロゴは刻まれているものの、レーベルの動きは2010年代に入る頃には実質的にストップしてしまった。
ただ、それ以降もアリーヤの残された音源を巡る噂が浮上してくるたびに、それを所有しているとされるハンカーソン親子やブラックグラウンドの存在が語られてきたのは確かだ。2021年までずっと沈黙してきたブラックグラウンドが賛否両論ありつつもここにきてレーベルとして再始動したということは、恐らく単なるカタログの再リリースやサブスク解禁といったトピックに止まるものではないということなのだろう。レジェンドを敬愛する現行アーティストたちとのコラボが過去に噂されたこともあるが、果たしてどうなるのか。いずれにせよ、ひとまずは伝説的な音源の復刻を喜びつつ、〈2.0〉の動きも楽しみにしていたい。
左から、ティンバランドの2007年作『Timbaland Presents Shock Value』、2009年作『Timbaland Presents Shock Value II』(共にMosley/Blackground/Interscope)