『JLG/自画像』 ©1995 Gaumont

誰も葬り去ることができず、手に負えない「出来事」
彼の死は映画史の完結=終焉ではなく再開である!

 「ゴダールが死んだ……」。厳粛さをまったく欠く殺風景な職場で同僚の口から不意に漏れたそんな言葉で僕はその事実を知った。その同僚は「もっと早く死ぬべきヤツはたくさんいるのに」とやや不穏当な発言を続けたが、すぐにネット上のニュースでともあれ確認した「ゴダールの死」に思いのほか動揺していない自分に気づかされた。

 ジャン=リュック・ゴダールは1930年にパリで生まれた。90歳を越える老齢なのだから、その訃報が遠からぬ将来に届くだろうことがとうの昔から想定されていたことが、僕の冷静な受け止めの主たる原因ではあるだろう。彼のことだから、また涼しい顔で大胆な新作を発表するかもしれない、といった想いもなくはなかったが、それも期待ともいえない漠然としたレベルにすぎなかった。彼がかなり以前からスイス・レマン湖畔の自宅兼スタジオ――後述の『JLG/JLG』を含め、ある時期からの彼の映画で頻繁にロケ場所ともなった――に隠遁し、新作が映画祭で披露されるなどの特別な機会を除き、表舞台に立つことがなかったことも、その死にさして感傷的にならずにいれた原因かもしれない。もちろん世界中の多くの人たちが彼の死を悼み、破格の偉大さを称え、その映画史上の位置づけを定めたり、思い出に浸ったりする言葉を発信しているのだろうが、個人的にはなかなかそれらに関心を払えずにいる。とはいえ、自分もまたこの文章を書くことで、それらの「追悼」の言葉の連なりの一端にささやかながら参加することになるのだが……。

 彼の映画を愛し、その新作が発表されるたびに衝撃を受け、映画批評家を名乗るようになってからは幾度となく彼の仕事について文章を綴り、言葉を発してきた身としては、少々薄情にすぎるかもしれない、こうした感傷の欠落については、それなりの理論的な根拠も捏造できるように思える。「ゴダールが死んだ」には、湿っぽい感傷や思い出の言葉を遠ざけるかのような乾いた散文性がある。そこには「今日の私の体温は35度である」といった文にも似た散文的な響きがある。それは、ゴダールが血肉を伴う「映画作家」である以上に「出来事」であったからではないか。結局実現しなかったが、ゴダールが来日するらしい、チャンスがあればインタビューする気はあるか、といったやり取りを編集者と交わした記憶がかなり以前にある。「もちろん!」などと答えながらも正直あまり気乗りがしなかったのは、友達にはしたくない類の厄介で偏屈な人らしい、といった風評の影響であるより、端的にいって、彼の「人格」や「人物」にさして興味がなかったということだと思う。僕らはゴダールという(「人物」ではなく)「出来事」に魅了され、圧倒されてきたのであり、だからこそ、それを過去の遺物として葬り去ることなどできない。どう追悼すればいいか言葉が見つからず、ある種の失語症状態に陥る。感傷に駆られて思い出に浸ることも許されない。

 ここまで「出来事」という言葉を不用意に連発してきたが、それは正確に何を意味するのか。たとえば、卓越したゴダール論を展開したこともあるフランスの哲学者ジル・ドゥルーズの文章「68年5月[革命]は起こらなかった」が参考になり、それがゴダールもかつてコミットした1968年の「出来事」を巡って書かれていることも偶然ではないかもしれない。ドゥルーズによれば、フランス革命やロシア革命といった「歴史的現象」には、「つねに、社会的決定論や因果関係に還元されえない出来事とでもいうべき部分が存在した」。しかし、「歴史家」は総じてこの「部分」に関心を示さない。彼らはフランス革命やロシア革命がなぜ起こったかを考察し、その「原因」を突き止めてしまう。「なぜなら、彼らは、通常、ことが終わってから因果関係を復元しようとするからだ」。こうして歴史の「教科書」が書き散らされる。「ことが終わってから」(その死がついに訪れたことで)、映画史の一頁に回収されることになるかもしれないゴダール……。「しかし、出来事というものは、因果関係からはずれるか、断絶したものである。つまり、出来事は、法則から分岐し、逸脱したものであり、新たな可能領域を切り開く不安定な状態なのである」。