息子と母、そして会ったことのない父。すべてを包む音楽にであえた音楽小説。

夢を見るのは悪いことじゃない、
すぐ隣で、だれかがはっきりと、自分に向けて、そう言った。
くすかは立ち尽くしたまま自分に向かって発される声を聞いた。
だれかがそんなふうに話しかけてくれるのは、くすかの記憶にあるかぎりはじめてのことだった。大丈夫さ、うまくやるさ、すべてははじまったばかりさ。

 高校生のくすかがであった瞬間。音楽に。それまでだってまわりに音楽はあったはずだ。耳にはいっていたはずだ。でも、声をかけられたのははじめて。誰かからじかに。それがスピーカーから、レコードから、というのを気づくのは、一刹那、あとのこと。

角田光代 『明日、あたらしい歌をうたう』 水鈴社(2026)

 「明日、あたらしい歌をうたう」。息子・あらた少年の章3つが、母・くすかの章が2つをサウンドウィッチする。あらた少年は2009年3月の、母・くすかは1979年夏の生まれ。少年は一人称・ぼくで語り、母は三人称・くすかで語られる。

 くすかが育っていくあいだ、20世紀も終わりにむかっていく時期、音楽の媒体はLPからカセットへ、CDへと変わってきた。十代のくすかは世界を閉じていたから、そんなこと気にしていなかった。そこに風穴があく。あらた少年の21世紀には音楽はいくらでもある。あるはずだ。そんななか、友だちにギターをもらう。ギター教室にかよう。

ギター、というか、ギターの音は、生きものみたいだった。(…)きちんと押さえられて、覚えたコードが増えるほど、音は少しずつ成長していって、いける範囲も広くなる。もっと大きくなってもらって、もっともっと遠くまでいってほしくて、ぼくは夢中でコードを覚える。指が痛いなんて言ってむずかしいコードをあとまわしにしていたら、音は成長を止めてしまう。

 あらた少年は友だちと一緒にスタジオにはいる。はじめて演奏する。

 楽器の音をだしてみる、アンプをとおしてひびかせ、ひとのだすのとかさねてみる。

 声はコトバと意味とないまぜになり、ドラムスとアンプをとおしたギターやベースのビート、サウンドとともに、振動が心身と空気とともに、揺れる。

うたいながらぼくは、目の前の光景が、ぐんぐん色づいていって、輪郭がはっきりしてくるのを見た。

 音楽がはたらきかける。母と子と、ふたりは音楽についてはなしたりしないのに、生きてきたときもところも違うのに、音をきき、音をだし、ひびきにからだを震わせることは個々に、独立しながら、つながっている。

 音楽がはたらきかける。はたらきかけには名なんてない。あるバンドマンの写真やうたやライヴの姿が描かれはする。誰、なんていわない。歌詞として引用されるのではなく、ほとんど地の文のなかに。ほとんど匿名。

 謎を含みながら、ほぐれてゆくことども。親のこと、恋人のこと、友だちのこと。ことばはときに嘘や虚構になり、大きなうなりをもたらす。ところどころに埋めこまれた音楽、詞とともに。そして、それは、ほぼ20年前、角田光代が発表した「八月の蝉」――くすかは蝉の声をきく――、「ロック母」を反響させながら。