佐野元春『フルーツ』(1996年7月1日リリース)が30周年を迎えた。1994年にTHE HEARTLANDを解散、〈バンドを離れて、自分のソロ・アルバムを作る気持ちで作った〉という本人のコメントどおり、佐野の新章を刻んだアルバムになった。のちにThe Hobo King Bandのメンバーになるミュージシャンも参加したこの10作目について、著書「日本語ラップ名盤100」「日本語ラップ 繰り返し首を縦に振ること」で知られる批評家・中村拓哉に論じてもらった。 *Mikiki編集部

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佐野元春 『フルーツ』 エピック/ソニー/M’s Factory(1996)

 

〈まごころ〉を肯定するポップ

ロックスターの多くがそうであるように、佐野元春は分裂的な反逆者のように見える。けれどもあくまで、優しさと楽しさに満ち溢れた反逆者だ。いや、そもそも優しさと楽しさを求めるためにこそ、反逆者になったのではなかったか。僕たちが欲しいのは〈まごころ〉(“SOMEDAY”)だけなのであって、それさえ自分のものにすることができて、他人とのコミュニケーションがいつもそれのやり取りであって、社会や政治がそれにのっとって動いてくれたならば、僕たちは他に何も望まないだろう。反逆それ自体が嫌悪や忌避の対象となり、過去のものになりゆく現代において、原点としてこのことを思い出す必要があると思う。

攻撃的で反逆的であることと、優しく楽しくあること。それはロックとポップの二面だ。不正や欺瞞を暴き、告発すること。時には攻撃的にならなくてはならない。ロック的な側面だと言おう。しかし、そうして荒くなった呼吸でいかった肩を揺らしていたら、見えなくなってしまうものがある。遠くの大きなものを睨んでいるときには死角になっている、すぐそばの、手許の〈そこ〉にある小さなまごころに気づくこと。攻撃性を脱ぎ、〈それ〉に気づき、〈それ〉を肯定すること。それもまた不可欠の一面で、それがポップだ。本作『フルーツ』は、佐野が自宅の庭で録音した鳥のさえずりで始まり、またその音で終わる。

 

孤独な〈ソウルボーイ〉の歩み

初期の佐野は、80年代のシティポップの時代に、シティで生きている若者のリアルな呼吸をロックにした。他方、1996年の『フルーツ』に流れる楽しさの感覚は、90年代のJ-POPの時代に、商業化され、画一化され、専有されようとするポップの感覚を取り戻し、その領地を守ろうとする態度であるように思える。〈いい時を過ごそう/いい時をみんなで〉(“楽しい時”)。派手なサビや、感情の動員の無理強いがなくても、ひとは楽しくいられるはずだ、と。また当時はオウム真理教による地下鉄サリン事件や阪神・淡路大震災など、世紀末的な暗い影が日本社会に差していた時代でもあり、それに対する応答も聞かれる。〈憎しみがまた別の/憎しみを生む世界/(……)/できることは何か 考えてる〉(“僕にできることは”)。そのようにして、内容的な面、音楽的な面、歌唱的な面においてカラフルな17の楽曲が並ぶ一枚になっている。

“ヤァ! ソウルボーイ”は、かつての名曲と3部作を成すと言われている。それらは佐野元春というロックスターが、自分と同じリアリティで生き、ともに歳を重ねていくことになる同時代の若者/大衆たちのことを歌ったものであり、あるいはまた、ロックスターにならなかった世界線の佐野自身の姿だとも言える。

最初の“DOWN TOWN BOY”(『SOMEDAY』収録)で男は、〈本当のものより きれいなウソ〉を求める街の中で〈すべてをスタートラインにもどして〉、〈たったひとつだけ残された/最後のチャンスに賭けてい〉た。

“WILD HEARTS -冒険者たち-”(『Café Bohemia』収録)で男は、そうした若き日々から遠く離れて〈土曜の午後/仕事で車を走らせていた〉。脳裏に浮かぶのは、〈昔よく口ずさんだメロディー〉だったり、〈仲間のひとりは瞳を閉じて/いつわりを許してる〉ことだったりする。男は一人、〈荷物をひとつにまとめて/明日ここを離れてゆく〉。

そこから10年後の“ヤァ! ソウルボーイ”で男はまた、〈仕事がはけていつものたまり場で/仲間達とまた罪を重ね〉ていた〈夢見る頃〉を懐かしみながらも、そこから遠く離れた場所で〈もう一度叩きのめすのさ/I’m a Soul Boy〉と、力強く孤独な一歩を再び踏み出すことになる。その裏に、過ぎ去ったものへのメランコリーと、差し迫る破局の予感を抱えながら、それでもなお、〈もう一度試してみる〉。ポップであることを。疚しさなしに、楽しいこと、よいことを全身で享受することを。大人になっても、時代に危機が訪れても。

 

ハードな2020年代にもポップなマインドは有効か

「優れたポップ・ミュージックとは、おそらくいい意味で、性善説に基づいた音楽ということが言える」。インタビューで、本作におけるポップをめぐる質問に、佐野はこう答えている。「この時代を見てほしい。非常にハードな時代だ。僕たちをうんざりさせる出来事があまりにも多い」。それはビートルズやボブ・ディランの60年代でも、ヴァン・モリソンやポール・サイモンの70年代でも同じことだったかもしれないが、彼らの音楽もやはり「性善説」に基づいていたように思える。だからこそ「今の時代、こんな時代に、性善説に立つことの勇気と愚かしさをもって、僕はこのアルバムに『フルーツ』というタイトルをつけた」(「This」、1996年6月号)。

そこからさらにその30年後の地点に、僕たちは立っている。いまなお時代や社会の切迫感、閉塞感に変わりはない。2020年代を生きる僕たちにも、本作の音楽たちが示している肯定的でポップなマインドを、身振りを、反復することが許されるだろうか。佐野元春は言う。〈僕らはもっと幸せになれるはず/僕らはもっと陽気になれるはず〉(“フルーツ - 夏が来るまでには”)。