2015年秋からNHK交響楽団首席指揮者に就任!
世界中のオーケストラからオファーの絶えない21世紀の指揮者
相変わらず刺激的な指揮者だ。リリースするCDはのきなみ完成度が高く、因習的な解釈を独自の視点で洗い直しながら、聴こえてくる音楽には頭デッカチとは無縁のしなやかな息遣いが備わる。ブルックナーの交響曲シリーズの第5作は第6番。作曲家像の見直しを迫るアプローチは毎度のパーヴォ流だが、ここでは特に両端楽章の流動感が際立つ。
「あまりにも遅く演奏されすぎてきたと私は思いますね。第1楽章の“マエストーソ”は速度でなく、音楽のキャラクターを表す言葉。冒頭のリズム動機も、ある種のスウィング感を保つ必要があり、その動きから第1主題が導かれていくのです。大きな2拍子のパルスと共に……(歌ってみせる)。こうした要素を内的なロジックとハーモニーの推移に結びつけていくのが最も重要で、かつ難しい点です。“ラングザマー”と書かれていれば機械的にスローダウンする演奏がナンセンスであるように、“荘厳にして宗教的”なのがブルックナーだという自動的な解釈も私には意味を持ちません(笑)。シューマンが作品に託した世界と同様の意味で、彼のシンフォニーもロマンティックな想念の産物。愛や女性的なものへの憧れも封じ込められている。絶対に神様のためだけになど、作曲していませんよ!」
ブルックナーの“ヒューマンな面”が最も発揮されたのが第6番の緩徐楽章だと彼は言う。演奏はまさに有言実行。第2主題部の耳に迫る歌心……。
「はい。そして第3主題部は沈痛な情感をたたえた葬送行進曲。スケルツォのトリオでホルンが3本しか用いられていないのは偶然とは思えません。ここでブルックナーがベートーヴェンの“英雄”を念頭に置いていたことは間違いないでしょう」
彼が率いるもうひとつのビッグネームがパリ管弦楽団。最新盤となるデュティユーの作品集は、いかにもパーヴォらしい意識的なプログラミングだ。
「創作活動の初期、円熟期、そして後期の作品を1枚のディスクに収めてみました。デュティユーの音楽からは“フレンチ・コネクション”の伝統が感じとれます。ドビュッシー、ラヴェル、メシアン……と連なる命脈が、極めてロジカルな形で。収録作品では交響曲第1番が珍しく見えるかもしれません。第2番のほうが有名だし、私も高く評価しています。しかし1950年代に書かれた第1番は、この当時には類例のないシンフォニー! 音列技法的な発想も用いながら、リズムの推進力も和声的語彙も新鮮で、まだ30代だった彼の反抗的とすらいえる姿が浮かび上がる。第2番の時期になると、さらに書式の完成度は高まり、しかし素材の使い方はやや穏便。そんな職人性と、演奏者の技術を最大限に発揮させる発想が結びついた『メタボール』は、“管弦楽のための協奏曲”と呼ぶにふさわしい傑作ですね」
パリ管のポストを2016年の夏で辞すのは残念な話だが、その代わりとばかり(?)、2015年秋にはNHK交響楽団の首席指揮者に就任するヤルヴィ。ゆくゆくはCDのリリースも……と期待したいところだが、当面のターゲットはブラームス。昨年12月の来日公演で全交響曲と協奏曲のクロノジカルなツィクルスを披露して話題を呼んだ、ドイツ・カンマー・フィル(DKP)とのコンビで録音予定だ。
「ブラームス自身は演奏に際してテンポの柔軟性を重視していました。決して禁欲的な作曲家ではない。オーケストレーションも大胆な発想や巧妙な仕掛けが隠し味的に施されています。それを“マ・ノン・トロッポ”な身振りで包み隠しているだけ(笑)」
なるほど。ちなみに彼自身の選曲による“ヤルヴィ&DKPのベスト盤”に新録音として加えられた3つの「ハンガリー舞曲」は、プロジェクトの事前告知にも相当しよう。しかしそれがまた、過激なまでに緩急自在で表情も多彩な快演だったりする。
「ジプシー・バンドに通じる自由さやスウィング感を狙っています。ラカトシュの演奏を連想していただければよい。真面目に弾いても退屈なだけ!」
そして肝心のシンフォニーも退屈の対極をいく演奏になること、これはもはや保証済だろう。