レクイエムの後に
多くのキューバの芸術家が暗黙の了解のようにキューバを去った。過去数十年間、我々は公認の、非公認のすぐれたキューバの音楽家たちの才能を祝福し、黙認してきた。今年、2001年に収録された東京でのチャーリー・ヘイデンとゴンサロ・ルバルカバのこのデュオがリリースされたのには、きっと故人となったチャーリーを偲ぶ、という以上の理由があるべきだろう。
そしてそう思うジャズファン、あるいはジャズに関わる音楽家、制作者がいったいどれくらい日本にはいるのだろう。日本はビジネスとしてのジャズの国際化にとても大きく貢献している国だが、日本のジャズ人のリテラシーはどの程度、国際化したのだろうか。奇しくも日本でも、キューバのジャズミュージシャンの現状を伝えるドキュメンタリー『キューバップ』が公開されている。
たとえばこの米国のチャーリーとキューバのゴンサロの東京のステージから、聞こえてくるのはジャズという音楽だけなのだろうか。もちろんこの静かな散歩のような足取りで進行していく音楽をただその美しさだけを享受するだけでいいに決まっている。そういうことに我々はとても長けてきた。しかしそろそろ音楽的出来事にいくつかの事実や状況を重ねて想像して味わうときがきたのではないか。
思えば『Liberation Music Orchestra』 をチャーリーがリリースしたのはキューバ危機直後だった。音に音を重ねていくこの二人の姿に歴史を重ね、政治を重ねていくとき音楽は美しい音から、力強いメッセージになるということに気がつかなければならないんじゃないだろうかと、思う。キューバと米国以上に国内に深い溝を抱えた日本だからこそ、そうなんじゃないだろうか。911の後に実現した二人のデュオが奏でたアダージョが、東京では耽美に浸る平和を忘れた聴衆に向けられたレクイエムだったと振り返る日がこないことを祈りたい。今だからこそこの二人の素晴らしい演奏には、意味があるべきだと感じた。