現代のUSを代表するバンドとなった、ヴァンパイア・ウィークエンド(以下VW)のベーシストであるクリス・バイオが、ソロ名義のバイオとして初のソロ・アルバム『The Names』をリリースする。これまでVWといえば、フロントを担うエズラ・クーニグと、プロダクションの鍵を握るロスタム・バトマングリが2枚看板を張っている印象が強かったが、〈SUMMER SONIC 2015〉の深夜イヴェント〈HOSTESS CLUB ALL-NIGHTER(以下HCA)〉で披露されたクリスの鮮やかなDJプレイを体感して、認識を改めた方も多いのではないか。『The Names』の根幹を成すのは、あのとき超満員のフロアを昂ぶらせたクラブ・ミュージックの上品な解釈と、アメリカ人離れした知的でヨーロピアンなポップ・センスの二面性だ。ダンディなヴォーカルを前面に出したポップ・ソングと、さりげなくエキセントリックなハウス・トラックを共存させることで、私小説的なドラマ性を演出してみせている。

このアルバムが持つジェントルな佇まいは、コロンビア大学で結成された知性派バンドであるVWの、底知れぬポテンシャルをも再認識させることになるかもしれない。グレゴローマン(Greco-Roman)やフューチャー・クラシックなど先鋭的なレーベルが以前から彼のソロ・ワークに注目し、今回の『The Names』がチャーチズホーリーチャイルドらを擁するグラスノートからリリースされる事実も、クオリティーと本気度を物語っているといえよう。〈ベーシストの初ソロ作〉という地味な印象を与えがちな枕詞と先入観から一旦離れて、機知に富んだプロダクションと遊び心を味わってみてほしい。DJ経験で培ったポップスとダンス・ミュージックへの造詣、ロールモデルとなったデヴィッド・ボウイと小説について、そして〈哀しげな曲調とドライヴするビート〉――〈HCA〉出演のため来日した際、この控えめでハイセンスな男にインタヴューを敢行し、本人/アルバムのバックグラウンドについて尋ねてみた。
 

BAIO The Names Glassnote/HOSTESS(2015)

 



――日本にはいつもバンドで来ていたわけですけど、ひとりで来日というのは逆に新鮮だったりしますか。

「そんなに気にしてないかな。少しならひとりでいることも悪くないしね(笑)。まだまだいろんなことが新鮮に感じられるし、また日本に来れて嬉しく思っているよ。それに、新作のためのライヴもまだそんなにやってないんだ。実際にツアーをやってみて、1年も経ったらひどく滅入ってるかも(笑)。でも、いまはすごくエキサイティングに思っている」

――なんとなく、ひとりが好きそうなイメージですけどね。

「いやいや、僕は結婚して妻もいるからね(笑)。ひとりでいるのも構わないんだけど、退屈な時間を過ごすのは何よりも苦手だから、なにかしら作業を詰め込んでしまうほうかな。バンドをやったり休暇の合間にこうしてソロ・プロジェクトをやったりして忙しくしていた。今回のアルバムも2013年の秋から作り始めて、2014年の終わりに完成したんだ」


――ソロ活動の構想は早い段階からあったんですか?

「2009年からアイディアはあったけど、頭のなかにあるサウンドをどうやって作ればいいのかわかってなかったんだ。僕はベーシストだから、ベース・ライン以外のプロダクションに詳しくなかったし。ただ、素晴らしいバンドでプレイしているおかげで、素晴らしいプロデューサーと仕事をすることができるからラッキーだよ。そういう制作過程で学んだこともあるけど、そのうち自分でも音作りができないとフラストレーションが溜まることに気づいたんだよね。だから、2009年くらいから自分でプロダクションをやり始めたんだけど、満足できるサウンドが作れるようになるまでにかなり時間がかかったよ」

――大学時代の話から始めさせてください。バンドに加入する前にDJをしていたそうですよね。

「コロンビア大学に入ったときにすぐバンドを始めたかったんだけど、自分と一緒に音楽をやってくれる人を見つけられなかったんだ。なので初年度はカレッジ・ラジオの番組を始めて、自分の音楽愛を表現しようと思った。そのラジオ番組ではDJをすることもできたんだ。自分の人生においても大事に時期だったね、というのも、18歳の頃はよく曲を書いていたんだよ。本当に酷いものだったけどね。そのあと、18歳から21歳まではいっさい曲を書かなくなった。代わりに聴くことに専念して、自分の好きな音楽を掘り下げていったんだ。ラジオをやってるときはスタジオ入りしたら、豊富に揃えられたらライブラリーからCDを抜き出して、PCに取り込み翌週の番組に備えておく。深夜2時からの番組で、ネット上で確認できちゃうんだけど、リスナーは3人しかいなかったけど、そこでかける音楽をひたすら聴きこんだよ。そして21歳になったらまた音楽を演奏し始めたけど、それまでの3年間はひたすらDJ。そこでの経験も今回のアルバム作りに反映されていると思う」

――クラブ・ミュージックのDJをやり始めたのはいつ頃ですか?

「それはもう少しあとだね。バンドを始めてから。それまでは学生のパーティーのためにラップやエレクトロをかけてたりしたんだけど、20代の中盤まではミックス(繋ぎ)のやり方もよくわかってなかった。コンパクトのレコードを聴くようになったのも、もう少しあとの話だね」
 

〈HCA〉でのパフォーマンスの模様
過去のDJセットもYouTubeにアップされている(動画はこちら
(c)SUMMER SONIC All Rights Reserved.


――ちょうど次に、コンパクトについて訊こうと思ってました(笑)。あなたのサウンドと共振するものを感じたのと、実際に交流もあるそうなので。あのレーベルのどこに惹かれますか。
 

「物哀しいサウンドなんだけど、ビートにはすごくドライヴ感があるよね。そういうところが好きなんだけど、そういうエレクトロニック・ミュージックが存在することを19歳まで知らなかった。10代のころからケミカル・ブラザーズプロディジーのことも好きで、ケミカルは新作もよかったし、いまだにすごいと思うけど、コンパクトは彼らと同様のツールを用いながら、また違う音楽を作っていると思う」

――コンパクトの所属アーティストでは誰が好きですか。

マイケル・メイヤー。ラッキーなことに、彼はヴァンパイア・ウィークエンドの大ファンで、僕の最初のEPの最初のシングルで曲をミックスしてくれたんだ。マティアス・アグアーヨも昔から大好きで、彼がEPに参加してくれたのも嬉しかったな。彼とのコラボ曲はDJをするときいまだにプレイしているよ。あとは『Total』シリーズや『Pop Ambient』シリーズも好き。それと、コンパクトの所属ではないけど、キアスモス(Kiasmos)はアイスランドのバンドによるバレアリックで哀しい曲調のテクノで、これもすごくいい」

【参考動画】2000年のコンピレーション『Total 2』収録曲“Amanda”
【参考動画】キアスモスの2014年作『Kiasmos』収録曲&ldquoHeld”

 

――ソロ名義のバイオでは、まず2012年に『Sunburn』というEPを発表しています。この最初のEPを出すに至ったきっかけは?

「自分が納得いくものを作れるまで3年かかったんだけど、DJをしていると〈この曲とこの曲とをうまくつないでくれる曲、自分のDJセットにうまくフィットしてくれる曲があるといいのに〉って自然と思うようになる。そういうところからDJを経てプロデューサーになる人はすごく多いと思うんだけど、自分はそれだけじゃなくて曲作りしないと満足できなくて、その方向性を試してみることにしたんだ。3つのトラックが出来あがったときに、ロンドンのグレゴローマンという、ホット・チップジョー・ゴッダードが携わっているレーベルのアレックスに送ったら気に入ってくれてね。そのあとに、その音源をマティアスに送ったら彼も気に入ってくれて、ヴォーカルを入れてくれたうえに、その曲をマイケル・メイヤーがミックスしてくれたという経緯だね」

【参考音源】バイオ『Sunburn EP』
3曲目の“Tanto”にマティアス・アグアーヨが参加、〈HCA〉でもプレイされた
 


――その次のEP『Mira EP』はオーストラリアのフューチャー・クラシックからリリースしていますよね。あのレーベルにはどんな印象を抱いています?

「やっぱり大好きなレーベルのひとつだね。所属アーティストのリミックスを通じてレーベルと知り合って、そのあとに4曲のトラックを作ってリリースすることになった。ハウスとテクノ、それにラップから影響を受けた作品が特徴的で、フルーム(Flume)の売れ方を見てもすごさはわかるよね。今度シドニーに行ってレーベルの人たちも僕のライヴに来てくれる予定で、会うのが楽しみだよ」

【参考動画】フルーム&チェット・フェイカーの2013年作『Lockjaw EP』収録曲“Drop The Game”
 


――これらのEPで培った経験が今回のアルバムにも反映されていると思うんですけど、過去のEPと今回のアルバムとではどこに違いがあると思います?

「全然違うと思うね。一番難しかったのは、自分が満足できるようなポップ・ソングを作って歌い、満足のいくパフォーマンスをすることだった。『Sunburns』のときも自分が納得いく曲をひとつ作るまでに何か月もかかってしまったけど、いったん満足いく曲を作る感覚を掴むと、そこからは簡単になっていった。でも、ヴォーカルを入れたり作曲をして、キャッチーでポップなものを作るというのはチャレンジだったよ。もちろん自分のレコードをプロデュースするにあたっては、どんな部分でも困難はあるものだけど、それはトラックの話。このアルバムで僕は、12年ぶりに曲を書いているんだからね。そこがEPと違う部分だと思う」

――そういったソングライティングにおける試行錯誤が結実したのが、先行公開されていた“Sister Of Pearl”なのかなと。この曲のMVで、スーツ姿で躍るあなたのアクションも印象的でした。

「この曲の歌詞には、〈自分がなりたい人になれ〉というメッセージが込められている。それをスーツ姿で楽しそうに踊っている姿を見せながら歌うのも、そのメッセージを伝えるひとつの手段だと思うんだ」


――この曲はヴォーカルもお見事です。先ほどの話にもあったとおり、〈自分で歌う〉というのもチャレンジだったわけですよね?

「そうだね。2012年にEPを出した時点で、満足のいくプロデューサーにはなれたけど、シンガーとしてはまだまだ。レコードで自分がヴォーカルを務めるときが来るのか不安だった。〈虫唾が走るぐらい嫌なもののままだったらどうしよう〉って。なので、次のステップは自分が歌えるようになることだった。それも、どちらかというとシンガー目線ではなく、プロデューサー目線で歌えるようになること。さらに2年半ぐらいかけて、去年の終わりごろにようやく自分が満足できるヴォーカルに辿り着いたと思えるようになった。これでツアーを組んで世界に出られるってね」

――あなたの歌いっぷりに、みんな驚くと思いますよ。相当の努力をされたと思います。

「そうだね(笑)。いまはコンピューターの技術で歌声を直したりできるけど、かなり練習は積んだつもりだよ」

――ベタな質問ですけど、好きなシンガーは誰ですか?

「デヴィッド・ボウイと、ロキシー・ミュージックブライアン・フェリーから最大の影響を受けている。たとえば“Sister Of Pearl”なんて、モロにロキシー・ミュージックの“Mother Of Pearl”からきているし。あと、2人とも僕が好きなアルバムを10枚以上出しているんだよ。最高の曲をそれだけ作れるなんてすごいよね。大学時代にラジオのDJをしているとき、そういう70年代の音楽と出会ったんだ」

――たしかに『The Names』を聴いて、ベルリン時代のデヴィッド・ボウイが浮かびました。曲のムードもそうだし、ポップ・ソングとインストのトラックが同列に並ぶ構成とかも含めて。

「その時期のボウイのアルバムは、ぼくの作品にすごく影響を与えているよ。『Low』や『Heroes』は収録時間が40分以下と比較的短いのに、ものすごいポップ・ソングが収録されているし、かと思えば6分か7分、あるいは10分間もヴォーカルなしの状態が続いたりする。アルバム後半に2曲のインスト曲が入っていたり、前半でポップスを聴かせたあとに7分のテクノのインストが入っていて、そのあと急にポップ・ソングが聴こえてくる。何が起きてもおかしくない、予測不可能な感じ。『Low』や『Heroes』は、早送りあるいは巻き戻しで5分スキップして聴くと、アルバムとしての意味をまるで成さなくなる。でも、そのスキップした5分間をきっちり聴くとちゃんと意味を成す。そういう作品を僕は目指しているんだ」

【参考音源】ロキシー・ミュージックの73年作『Stranded』収録曲“Mother Of Pearl”
【参考動画】デヴィッド・ボウイの77年作『Low』収録曲“A New Career In A New Town”
こちらは3分足らずのインスト曲。ポップ・サイドでは“Be My Wife”が、
“Sister Of Pearl”の下敷きとなっていそうだ(試聴はこちら)。

 

――あと今回のアルバムには、その当時のボウイにも通じるヨーロッパ的なセンスを強く感じました。大学時代には、ロシアに関する勉強もしていたんですよね?

「うん、ロシアの地域研究(regional studies)を専攻していた。たとえば言語、文学とか歴史、文化や人類学、あるいはロシアに関連するいろんなしくみや体制などを学んだよ」

――そういう方面に、なんで興味をもったんですか?

「18歳くらいのときに『ロリータ』(ウラジーミル・ナボコフ著)の英語版を読んで、そのあと19歳の時にドストエフスキーの『罪と罰』に出会ったんだ。ふたつの作品は文学的には異なるものだけど、どちらもロシアに紐づいているし、そこからたとえば〈ドストエフスキーの小説を原文で読めたらいいな〉という好奇心からロシアの言語も学びはじめて、ソ連の歴史にも興味が湧いてきた。大学時代はとにかくヒマができたら、図書館に入り浸ってロシア関連の本を読んだものだよ。もちろん、どの国や地域もユニークだと思うけど、僕はロシアについて特にそう感じる」

――具体的に、どこがユニークだと思います?

「ここ100年ぐらいで、大学の博士などが書いた知的ドキュメントを、何百万人の民を統治する政府が採用したりしたのはあそこだけだと思うし、共産主義の興亡もあそこで起きたわけで。挙げだしたらキリがないね」


――『The Names』というアルバムのタイトルは、ドン・デリーロの小説に由来しているんですよね。残念ながら邦訳されてないみたいで。

「へえ、それは興味深い。僕はいつも言語に興味をもっているんだけど、翻訳物って作者が書いた原文と同じになることは絶対にないと思うんだ。だからこそ興味をもつんだけど」

――わかる気がします。というのもあって、小説の内容を簡単に教えてもらえないですか。

「80年代初頭にギリシャに住んでいたアメリカ人の話。その彼のアメリカ外交についての考察、海外に住みながら別の国で一国の代表を務めること、など。それは僕も共感できること。なぜなら、僕はいまロンドンに住んでいるし、日本にいるときもそうだけど、外国に行くといつでもなおさら、自分がアメリカ人であることを意識するんだ」

――スティングの“Englishman In New York”と逆パターンですね。

「ハハハ(笑)。でも、それは別にUSに限った話ではなく、どんなところであっても、自分がいつも住んでいるところから離れてみると、むしろその場所との繋がりを強く感じるというか。そういうトピックの本さ。本の主人公は〈Risk Assessment(リスク評価)〉という政治業務に従事していて、中東や欧州に出向き、そこの政府の安定性を評価したり、対アメリカの風潮を判断したりといった業務をしている。でも単純な本ではなく、ひねりや展開があるんだ。なんていうか、いい言葉を当てはめるなら〈エクスペリメンタル〉な作風」

――おもしろそう! 近々、映画化もされるんですよね。

「そうらしいよね。ものすごい偶然なんだけど、2009年から自分のソロ・アルバムを作るとしたらこの名前にしようと考えていた。しかも僕の妻の兄弟が、その映画版を撮る監督(アレックス・ロス・ペリー)と前回の作品で一緒に仕事してたそうなんだ。こういう業界は世間も狭いからね」

――そういえばロスタムも以前、ディスカヴァリーとしてエレクトロ・ポップのアルバムを出してましたよね。

「あのレコードは素晴らしかったな。どちらにもポップな要素があるけど、あちらはもう少しR&B寄りで、僕のはテクノ/ハウスの影響が強く出ていると思う」

【参考動画】ディスカヴァリーの2009年作『LP』収録曲“Osaka Loop Line”


――バンドのメンバーは、もうアルバムを聴いているんですか?

「うん。完成させてから、すぐみんなに聴かせたよ。〈いいね!〉って言ってもらえて嬉しかった。エズラとクリス(・トムソン)は“Needs”が好きで、ロスタムは“Sister Of Pearl”がいいと言ってたね」

――最近、ほかのメンバーは何をしているんでしょう?

「いまバンドは休暇中で、それぞれ個別に活動しているところ。エズラは曲作りしているし、ロスタムはプロデュース業をしている(※最近ではチャーリーXCXカーリー・レイ・ジェプセンなどの曲も手掛けている)。みんなイイ感じじゃないかな。僕は9月から、ギター・プレイヤーも交えたりしながら、ツアーに出る予定。バンドとしても、来年くらいにまたツアーできたらいいね」