「差異と反復の遊び」から生産される、「新しいもの」の行方は?

 イタリアの南トスカーナ地方で撮影された『トスカーナの贋作』(2010、原題はCopie conforme、英題はCertified copy。“公認されたコピー”といった矛盾を孕んだ概念)は、アッバス・キアロスタミの仕事を見守り続けてきた僕らを少なからず戸惑させる映画だった。彼がはじめてイラン国外で撮影した長篇劇映画であったからだけではない。同作では、ほぼ全篇にわたってオリジナル(本物)/コピー(贋物)を巡る議論が散りばめられる。たとえば、映画と同じタイトルの著作を発表したばかりのイギリス人作家ミラーが次のような内容の講演をする冒頭のシークエンス。私の著作には“本物よりも美しい贋作”なる副題が添えられているが、これは間違いなく挑発的である。というのも、本物(originality)には以下のような肯定的な含みが付きまとうからだ。すなわち、真正にして純粋、信頼性が高く永遠である等々。しかし、少なくともその本物の価値を証明するという点で贋作にも価値があり、originalityの語源を遡ると“誕生・起きる・生じる”などと関連するのだから、本物とは何かを巡る検証はわれわれの文明の起源を探究する作業ともなるだろう……。

 こうした本物/贋物を巡る議論はそれ自体として楽しめるものだが、あまりにもキアロスタミ的な主題であるがゆえに僕らを戸惑わせもする。彼の作品群が本物(現実)と贋物(虚構)のあいだで生起するものと評価される以上、ミラーが展開する持論を映画作家自身の仕事や創作法とある程度まで重ね合わせることも可能なのだ。しかし、ミラーの携帯の呼び出し音が講演を中断させたり、オフで彼の講演を聞かせながら、画面上ではフランス人女性と息子――空腹な彼は会場を早く抜け出したいと考えている――の視線のやり取りが描かれるといった演出、さらには途中で退席する母子と共に僕らも会場を後にすることになるのだから、彼の議論をあまり真に受けてはならない……とおそらく映画作家は示唆している。彼の映画は「本物と贋物の戯れ」である以上に、「差異と反復(の遊び)」の産物であり、ジル・ドゥルーズによれば、その「遊び」で転倒されるべきは「同一性」の概念である。キアロスタミの映画はある意味で“本物よりも美しい贋作”だが、そうした主張が彼の映画の真正さを保証するとなれば、キアロスタミの作家としての同一性(≒originality)が確立されてしまう。『トスカーナの贋作』で展開される議論は、キアロスタミの映画を巡る言説の真正さを覆すための「遊び」、映画作家の手で新たに創出される「仮面」であるだろう。キアロスタミがキアロスタミの仮面を被り、キアロスタミがキアロスタミを反復すること。あなた方が信じるキアロスタミ像は仮面に過ぎない……と。「一切の同一性は、差異と反復の遊びとしての或るいっそう深い遊びによって、見せかけられたものでしかなく、まるで光学的な「効果」のように生産されたものでしかない」(ドゥルーズ『差異と反復』、以下同)

 そうした「遊び」が、イスラム革命後のイラン、自由な映画作りなるものが危機に瀕していたはずの国でなぜ可能だったのか? 小さな村の小学校でマハマッドが隣に座る友だちのノートを自分のノートと見誤ったときにそれは始まったのかもしれない(『友だちのうちはどこ?』)。次に宿題をノートにやってこなかったら退学にする、と教師に厳しく叱責されたばかりの友だちのノートをマハマッドは自宅に持ち帰ってしまう。理由は単純で、二人のノートが瓜二つなまでに類似していたからだ。ノ-トを返すべく友だちの家があるはずの別の村へと至る(かの有名な!)ジグザグ道をマハマッドは三度も往復せねばならず、その反復の光景が遠景ショットで捉えられる。似たような扉の前に何度も立つマハマッドだが、そのどれひとつとして彼を友だちのもとへ導いてはくれない。扉という「一般性」が大人の無理解といった「一般性」を表象=再現前化するものとして立ちはだかるのではない。あくまでもそれぞれに差異を孕んだ扉の反復があり、例のジグザグ道にしても何らかの象徴である以前に、それが反復されることこそ重要である。結局マハマッドは妙案に到達する。友だちの分の宿題をも肩代わりし、明朝二冊のノートを学校に持参すればいい……。宿題を二度反復する行動は、彼のノートの累乗化にして友だちのノートとの差異化だが、教師はそうした反復に伴う差異に気づかない。彼にとってノートはあくまでも子どもの「同一性」を保証するものなのだ。映画作家は、少年の不器用で誠実な行動の反復を通して「同一性」が「見せかけ」であり、光学的な「効果」に過ぎないと僕らに告げる。

 1990年にイランを襲った地震が『友だちのうちはどこ?』(87)のロケ地に甚大な被害をもたらす。映画作家は自作に出演した子どもたちの安否を気遣い同地を再訪、『そして人生はつづく』(92)はその旅を映画化したもので、さらに同作の撮影時のエピソードを基に『オリーブの林をぬけて』(94)が撮られる。この前代未聞の三部作は、地震直後の現実を表象=再現前化し、その代理物を観客に伝えるものなのか。再びドゥルーズによれば「反復は代理されえない[かけがえのない]ものに対してのみ必然的で根拠のある行動」となり、「行動としての、かつ視点としての反復は、交換不可能な、置換不可能な或る特異性に関わる。反映、反響、分身、魂は、類似ないしは等価の領域には属していない。そして一卵性双生児といえども、互いに置換されえないように、自分の魂を交換しあうことはできないのである。交換が一般性の指標だとすれば、盗みと贈与が反復の指標である」。キアロスタミの映画は現実を盗み、反復させた現実の分身だが、その分身は現実と類似し、交換可能なものとしてあるのではない。マハマッドは自分のノートの分身を「贈与」したのであり、二人のノートは互いに置換されえない「一卵性双生児」なのだ。そもそも多くの人命を奪い、大地を崩壊せしめた現実を、いかにして表象=再現前化するというのか。映画作家にできる行動は、その代理されえない現実、かけがえのない出来事(特異性)を反復させることではないか……。

 キアロスタミはいわゆる「俳優」による演技を排した「演劇」の偉大な考案者である。素人であるがゆえに可能な自然で素朴な演技……などと安易に納得しないでおこう。彼の映画で捉えられるのは、演技力云々ではなく人間に備わる置換不可能な「特異性」であった。『友だちのうちはどこ?』で生徒らを震え上がらせる教師は実生活でも教師で、自身を(演じるのではなく)反復し、分身を画面上に出現せしめるのだ。反復を巡る偉大な哲学者であるキルケゴールニーチェの仕事は、運動の表象=再現前化ではなく、運動そのものをダイレクトに作品とする企てであり、だから彼らは先駆的な「演劇人」や「演出家」であったとドゥルーズは書く(「演劇、それは現実的運動である」)。こうして「表象=再現前化の演劇」に「反復の演劇」が対置され、マルクスを巡っても短いが重要な言及がなされる。彼が与した「本質的に演劇的な観念」とは以下のようなものである。「歴史がひとつの演劇であるかぎり、反復、あるいは反復における悲劇と喜劇は、運動のひとつの条件をなしており、その条件のもとで、「当事者[俳優]」つまり「主人公」は、歴史において、何か実際に新しいものを生産する」。キアロスタミ作品での「俳優」はむしろ「当事者=行為する人」と呼ばれるに相応しい。そして彼ら「主人公」は、映画の撮影という度重なる反復(映画の撮影現場を扱う『オリーブの林をぬけて』での果てしなき撮影のやり直し!)、そこで生きられる悲劇と喜劇によって、その運動を条件づけられ、しかしだからこそ歴史=演劇において「何か実際に新しいものを生産する」だろう。世界やそこでの出来事を表象=再現前化する手段ではなく、世界や出来事の反復、現実的運動そのものであろうとする映画……。「見せかけの役割は、似像たることにではなく、すべての範型をも転倒させることによってすべての似像を転倒させることにある。そのとき、あらゆる思考[思想]は、攻撃へと生成するのだ」。どんなオリジナルも結局は実在の範型の似像に過ぎない、といった『トスカーナの贋作』でのイギリス人作家の主張は、キアロスタミの映画を捉えるうえであまりに射程が狭い。彼の映画で遂行された「差異と反復の遊び」は、本物と贋物のあいだの戯れといったポストモダンな思考(?)を根こそぎ転倒するかのような攻撃性を帯びるのだ。そこで生産された「新しいもの」とは何だったのか? 今後僕らは今は亡き偉大な映画作家のマルクス的な攻撃性を探究し、反復させねばならない。

 


Abbas Kiarostami(アッバス・キアロスタミ)[1940-2016]
1940年イラン・テヘラン生まれ。大学卒業後グラフィックデザイナーとしての活動を経て、30歳から映画制作を始める。1970年に「パンと裏通り」で映画監督デビュー。1987年の「友だちのうちはどこ?」で国際的に注目を集める。1999年「風が吹くまま」ではベネチア国際映画祭の審査員グランプリを受賞。2012年「ライク・サムワン・イン・ラブ」では日本を舞台に、高梨臨、奥野匡、加瀬亮らを起用した。今年7月、治療のため滞在中だったパリで永眠。享年76。ベネチア国際映画祭の70周年を記念したプロジェクトのために作られた短編作品が最後の監督作品となった。

 


寄稿者プロフィール
北小路隆志(Takashi Kitakoji)

映画評論家。京都造形芸術大学准教授。著書に「王家衛的恋愛」(INFASパブリケーションズ)、共著に「映画の政治学」(青弓社)、「国境を超える現代 ヨーロッパ映画250 移民・辺境・マイノリティ」(河出書房新社)など。新聞、雑誌、劇場用パンフレットなどで映画評を中心に執筆。