ジャンルを横断しながらアップデートし続ける、21世紀以降のクラシック音楽をフィーチャーした連載〈Next For Classic〉。第4回に登場するのは78年生まれのジャズ・ピアニスト、林正樹渡辺貞夫菊地成孔椎名林檎など名立たる大物からも重用される彼は、近年のソロ・ワークで静的で無国籍な音世界を築き上げてきた。そして、今年11月にリリースした新作『Lull』(ラル)では自身のピアノ一台で、イマジネーションを掻き立てる淡い音像を描いている。クラシックやジャズ、ワールド・ミュージックにアンビエント――さまざまな要素が溶け合った名状し難い響きには、今日的なピアノ表現を考えるうえでも大きなヒントがあるはずだ。今回は林と旧知の間柄である、音楽評論家の高橋健太郎氏によるインタヴューをお届けしよう。 *Mikiki編集部

 

林正樹というピアニストのことを意識するようになったのは、菊地成孔率いるペペ・トルメント・アスカラールに彼が参加した頃からだと思う。ペペの初代のピアニストは南博だったが、2008年のアルバム『記憶喪失学』の頃から林に替わった。ペペのメンバーには徳澤青弦(チェロ)、鳥越啓介(ベース)、北村聡(バンドネオン)など、他所で知り合ったミュージシャンが参加することが多かったが、林正樹はどこから現れたのかは知らなかった。が、その演奏、というよりは音の出し方や佇まいに、只ならぬものを感じた。菊地さんは凄いピアニストを見つけてきたなと思ったものだ(実は僕も早くから彼の演奏を知っていたのだが、そのことには最近まで気付かなかった)。

林正樹が参加した、菊地成孔とペペ・トルメント・アスカラールのライヴ映像
 

先にリリースされた林正樹の新作『Lull』は、彼の4枚目のソロ・アルバムになる。昨年発表した『Pendulum』はジョアナ・ケイロスアントニオ・ロウレイロ藤本一馬らをゲストに迎え、異なる楽器、あるいは声との対話が聴けるようなピアノ・アルバムだったが、『Lull』は完全なピアノの独奏だ。レーベルのSPIRAL RECORDSは近年、ソロ・ピアノ作品に積極的で、2014年の中島ノブユキ『clair-obscur』、2015年の丈青『I See You While Playing the Piano』も素晴らしいアルバムだった。後者は超高解像度の11.2MhzDSD録音、同じフォーマットでの配信リリースでも話題を撒いたが、林正樹『Lull』も同じく11.2MhzのDSDでも楽しむことができる。エンジニアリングは奥田泰次。レコーディングは長野県のあづみ野コンサートホールで行われ、林は古いベーゼンドルファーのピアノを弾いた。

長野・あづみ野コンサートホール
 

林正樹は〈弾く〉と同じくらい〈聴く〉ピアニストであるように思われる。『Pendulum』でのゲストとの対話然り。あるいは、林が率いるユニット〈間を奏でる〉では5人のミュージシャンが空間に耳を澄ませつつ演奏する。日々のセッションでの林の演奏にはユーモラスな会話を楽しむような瞬間も多い。だが、今回はピアノの独奏だ。林は自分だけを聴き、自身の内面と対話する。その時、彼が何を問い、何を答えているのかは、他人に言葉で説明するのは難しいことかもしれない。1時間ほどのインタヴューで、そこを少し解き明かすことができただろうか。

林正樹 Lull SPIRAL(2016)

 

独自のピアニズムとデザイン性を獲得するまで

――今回の林さんの作品を含め、ピアノ・ソロのレコードって、作曲されたものなのか、即興なのか、聴き手にはなかなかわからない。ニルス・フラームの『Bells』がすべて即興だったと知ってビックリしたり。完璧に譜面にしたものを弾く人と、完全に即興の人と、その中間があると思うんですけど。林さんの場合は? 

「僕は中間ですね。今回は譜面である程度の枠組みはしっかり決めてから演奏に臨んだんですけども、細かいアドリブ的な演奏はもちろんたくさん含まれています。でもその比重はあまり多くはないですね。ニルス・フラームも僕のイメージではコンポジションとして作ったうえで自由に演奏しているように思うんですけれど。即興という言葉の使い方が違うのかもしれない」

――キース・ジャレットみたいに何もなしで始める即興とは違うのかもしれませんね。

「言葉の使い方が、人によって若干の違いがあるかもしれない。ミュージシャンでもつい簡単に〈即興〉と言っちゃったりするんですけど、僕はなるべく、本来はアドリブというべきところを即興と言わないようにしている。そこは自分のなかで定義が一応あります」

ニルス・フラームの2009年作『Bells』収録曲“In The Sky And On The Ground”
キース・ジャレットの84年のライヴ映像
 

――林さん、もともとはジャズ・ピアニストをめざしていたんですよね。

「はい、高校生の時にジャズ・ピアニストになりたいと決意し、その後は佐藤允彦さんなどに教わったりしていたんですが、実際に知り合う共演者はジャズ以外の人が多くて、ストレート・アヘッドなジャズから早くも遠ざかっていました。18歳の時に民謡歌手の伊藤多喜雄さんのバンドに縁があって入れてもらい、南米ツアーに3週間行ったんです。そこで国によってこんなにもおもしろい音楽があるんだと知って、そこからタンゴに興味を持つようになりました。何年か経ってから、日本でタンゴを専門的にやっている小松亮太さんや、小松さんの影響を受けて成長してきた北村聡くんなどとトラディショナルなタンゴをやらせてもらったり」

――タンゴはクラシックに近い、譜面ありきの世界ですよね。

「そうですね。でもクラシックみたいに、厳密にこの音符をひとつひとつ必ず弾かないといけないというよりは、アンサンブルのルールを守ることができれば、ある程度は自由にできる要素はあります。最初はジャズの言葉の範疇で音楽を考えていたので、そこに馴染んでいくには結構難しかった。タンゴをやっている人はクラシックから来ている人が多いですし」

――じゃあ、林さんはクラシックはそんなに通ってきていない?

「5歳くらいで始めて、7歳くらいで辞めちゃったんですよ。そこからは自分の好きなことをやってきたんですけれど、小松亮太さんと仕事をやりはじめた時に、小松さんに〈林さん、素晴らしいんですけれど、ピアニズムっていうんですか、もうちょっとそこを磨いたほうがいいんじゃないですか〉と言われて……」

――ピアニズムですか?

「ピアニストとして、クラシック・ピアニストなら持っている話法というか。その小松さんの鋭い意見、自分でも言われている意味がわかったので、それからクラシックのピアニストに月1回レッスンを受けるようになって、2年くらい、仕事の合間に時間を見つけてクラシックの練習をしましたね」

林正樹が“Moon River”を弾くソロ・パフォーマンス映像
 

――ということはタンゴが媒介になって、クラシックに。

「そうですね。小松さんのアドヴァイスにはとても感謝しています」

――僕も南米の音楽が媒介になって、クラシックに興味を持ったところがあります。ヴィラ・ロボスと裏山のサンバの人たちが繋がっていたりとか、クラシックと大衆的な音楽の間に垣根がない。あと、アルゼンチンのピアニストがクラシックを弾いているのを聴くと、ノリが全然違うんですよ、ヨーロッパのピアニストと。そういうことを知っていくなかで、クラシックにも興味が出てきた。

「確かに、(バンドネオン奏者の巨匠)アストル・ピアソラもフランスでちゃんと勉強してきた人ですしね。(ブラジルの)エグベルト・ジスモンチも僕は大好きなんですけど、ジスモンチも西洋音楽を勉強したうえで自分の音楽を切り拓いたわけで、僕ももうちょっと勉強しないといけないなと(笑)」

アルゼンチン出身のピアニスト、ディエゴ・スキッシアンドレス・ベエウサエルトがエグベルト・ジスモンチ“Meninas”をカヴァーしたライヴ映像
 

――前作『Pendulum』はそういう林さんの南米的なもの、ジャズにもクラシックにも寄らないコンポジションが表現されたアルバムに思えたのですが、今回はまたちょっと違いますよね。

「いや、『Pendulum』も自分では南米的なものを意図していたわけではないです。アントニオ・ロウレイロやジョアナ・ケイロスとかに参加してもらうことによってその要素も混ざったと思うんですけど、自分では今回の曲も『Pendulum』と世界観は大きく変わっていないと思っています」

林正樹の2015年作『Pendulum』全曲試聴音源

 

この答えは意外だった。ペペ・トルメント・アスカラールでの演奏や一昨年以後のアントニオ・ロウレイロや藤本一馬との競演に強い印象を受けていた僕は、その流れのなかに『Pendulum』を置いて見ていたのだが、林正樹のコンポジションにおいては、特に南米的なものは意識されていなかったのだ。

そう言われて聴き返してみると、『Pendulum』〜『Lull』に通底するある感覚に気付くことになる。それはミディアム・テンポの穏やかな曲が多いにもかかわらず、その底に確かなリズミック・フィールがあることだ。それはラテン的なロマンティシズムを漂わせたものではなく、もっと硬質な幾何学性のようなものを感じさせると言ってもいい。とはいえ、ミニマル・ミュージック的な無機質な反復性とも違う。彼個人の身体に内在する脈動が独特のデザインを生み出しているかのような、そんな手応えがある。

藤本一馬の2016年作『FLOW』全曲試聴音源
 
アントニオ・ロウレイロとジョアナ・ケイロス(クラリネット)の共演ライヴ映像。マルチ・プレイヤーのロウレイロは、ここではドラムスを担当