1. サポート・メンバーの再編の前に発表されたのが、3曲入りのシングル“街の報せ”(2016年)だった。黒田卓也(トランペット)やコーリー・キング(トロンボーン)らとNYで録音した同作は、いま聴いても髙城晶平、荒内佑、橋本翼という三人の濃密な音楽的コミュニケーションと次なる一歩への野心が感じられる。内省的なR&B、あるいはヒップホップ的なアプローチが目立っていた繊細な3曲だが、それらがceroの前途を予見していたかというと、新作『POLY LIFE MULTI SOUL』が届けられたいまとなっては、〈それはまったく違う〉と言うほかないだろう。ceroは、バンドとして何度目かの変化のときを迎えている。
2. そもそも、編成や音楽的なアプローチが同じであったり、何かしらの延長線上にあったりしたことなど一度もないのがceroというバンドだろう。そうはいってもしかし、『POLY LIFE MULTI SOUL』と前作『Obscure Ride』(2015年)とを聴き比べて、これが同じバンドなのかという驚きを覚えるのもまた確かで……。なにしろ、ディアンジェロとJ・ディラ、あるいはロバート・グラスパーとクリス・デイヴのビートを独自に血肉化したファンクが、今作ではポリリズム/クロスリズムに置き換えられているのだ。そのアプローチが全面に出ているのが荒内が作曲した“魚の骨 鳥の羽根”“Waters”の3曲で、彼が今作の音楽的コンセプトの大きな部分を担っていることは、いくつかのインタヴューで本人たちが発言している通りである。
3. 本作のアプローチは確かに複雑で、野心的で、挑戦的だ。が、〈ステップ〉や〈ダンス〉という言葉が強調されている通りに、決して踊れない音楽ではない。『POLY LIFE MULTI SOUL』では、歌もパーカッシヴなコーラスも、ベースやドラムスも、多彩なパーカッションも、ポリリズム/クロスリズムでスウィングしている(“魚の骨 鳥の羽根”で、髙城は〈水銀〉を〈スウィンギン〉と発音している)。
4. それには、厚海義朗と光永渉という従来の2人に加え、古川麦、角銅真実、小田朋美を迎えた現在の編成で、本作の制作前にツアーを含めたライヴを数多く重ねてきたことも大きいのだろう。ポリでマルチに揺動する律動には、すわりの悪さと心地良さとが同居しているが、8人による合奏というライヴ感が後者を強調している。音楽そのものがポリでマルチなら、それぞれバックグラウンドの異なるメンバーもポリでマルチである現在のceroは、バンドというよりは〈クルー=乗組員、乗り合い〉といった趣だ(「クイック・ジャパン」のインタヴューでは〈社会〉だと語っている)。
5. 本作の歌詞には〈life=人生、生活〉を象徴し、〈あちら側〉と〈こちら側〉を隔てる〈川〉〈水〉というモティーフが(古典的ながらも)頻出している。8分超のクロージング・トラック、“Poly Life Multi Soul”のベースラインやデヴィッド・バーンふうの節回しは、トーキング・ヘッズの“Once In A Lifetime”へのオマージュだろう。〈日々は過ぎ去る/水が流れるように/人生は一度きりだ/水が地下へと流れていくように〉(“Once In A Lifetime”)。ポリにしろマルチにしろ、それは複数の〈1〉からなっている。複数性と単一性、ありえた過去や未来と人生の残酷な一回性――その間をスウィングするのが『POLY LIFE MULTI SOUL』という作品なのだろう。