結成から25周年を迎えてもなお、不動の人気でチャートを賑わせ、ファンの心を震わせる希代のヴォーカル・グループ、バックストリート・ボーイズ。熱狂的なアイドル人気を集めたデビュー期、ミレニアムを跨いで社会現象となった時代、さまざまなプレッシャーや人間関係に苦しんだ時代、それを乗り越えて自分たちのヴィジョンを獲得した時代、折々の経験をすべて呑み込んだ5人は、また華麗なる足取りを見せてくれるだろう、あなたが彼らを愛し続ける限り……

 25年というのは、さまざまな物事が変化するのには十分すぎる歳月だ。微細な流行のグラデーションよりも大きな時間軸のなかで、価値観は何度も転換し、さまざまな最新が過去として堆積されていく。少年は青年期を経て大人になり、あまつさえ中年などと呼ばれるようになる。そんな長い年月を経過してなお、そこに堂々と立っているのがバックストリート・ボーイズ(以下BSB)だ。

 93年に5人組として歩みはじめた彼らは、活動25年を経た現在もまだ多くの人の心を掴む存在であり続けている。2017年から記録的なロングランを続けるラスヴェガスでのレジデンシー公演も評判のなか、5年ぶりに届けた新曲“Don't Go Breaking My Heart”(2018年5月)はその衰えぬ人気を改めて証明する結果となった。莫大な数字に裏付けられた商業的な成功が〈売れ線〉として軽んじられていた時代のポップスターが、数字の話しか基準にされなくなった現代も余裕で健在なのは何となく痛快にも思えてくるが、時代の評価や捉え方が変わろうと彼らの根本は往時から変わっていない。

 

時代の流れに反した結成

 BSB結成のロールモデルには、80年代末に頂点を迎えたボーイ・バンドの先達、ニュー・キッズ・オン・ザ・ブロック(NKOTB)の存在がある。世界中のティーンの心を掴んだ彼らも90年代に入ってからは逆風に見舞われ、過熱した人気も徐々に収束へと向かいつつあった。ミリ・ヴァニリ事件(レコードで歌っていなかった事実が露見して90年に受賞したグラミー新人賞を剥奪された)の余波もあっただろうが、そうでなくても巨大化しすぎた反動でNKOTB的なポップスター像が時代遅れに思われるようになっていたのは否めない。若者たちはグランジやヒップホップ勢のカジュアルな在り方に新時代のスター像やアイドルとしての親しみを見い出すようになっていたのだ。が、まさにNKOTBもリップシンク疑惑のスキャンダルに見舞われていた92年3月、フロリダ州オーランドのビジネスマンでNKOTB式の成功モデルに可能性を感じていたルー・パールマンは、地元紙に新規ヴォーカル・グループのメンバー募集広告を出稿する。BSBはそこから誕生した。

 そもそも最初に出会っていたのは、いずれもオーランド出身で、早くから芸能の道を志していたハウイーD(73年生まれ)とAJ・マクリーン(78年生まれ)の2人だ。いろいろなオーディションを受けるうちに彼らと知り合ったのがNY出身のニック・カーター(80年生まれ)。ニックもまた10歳の頃からCMや映画に出演し、歌も始めていた有望な子役タレントだった。一方、ケヴィン・リチャードソン(71年生まれ)とブライアン・リトレル(75年生まれ)はケンタッキー州レキシントン出身の従兄弟同士で、幼い頃から地元の聖歌隊などで歌っていたという。そのケヴィンはオーランドに移り、ディズニーワールドで働きながら音楽での成功を模索するようになる。やがて彼も同僚を通じてハウイーらと出会い、それぞれがパールマンのメンバー募集に応募することとなった。応募の条件は16~19歳だったにもかかわらず、合格したAJは当時14歳、ニックは12歳。さらにハウイーとケヴィンが選ばれ、最後にケヴィンの誘いでケンタッキーからやってきたブライアンが93年4月20日に加入――この日がBSBの公式な結成日となった。

 パールマンの自主レーベルから発表した最初のシングル“Tell Me That I'm Dreaming”(93年)を聴けば、最年少のニックが当時まだ変声期を迎える前だったこともあり、初期ニュー・エディションやNKOTBに通じるバブルガム・ソウルとしての魅力も感じられるはずだ。ただ、もちろん今も昔もBSBは〈ヴォーカル・グループ〉であることを常にアピールし、いわゆる〈ボーイ・バンド〉を自称したことはない。当時アカペラを頻繁に披露していたのも、先達のスキャンダルによって広まっていた〈ボーイ・バンド=歌えない〉というネガティヴな固定観念を払拭するためだった。彼らが標榜していたのは〈ボーイズIIメンのサウンドで歌うNKOTB〉というもので、実際にボーイズIIメンやジョデシィ、シャイ、カラー・ミー・バッドといったR&Bグループをモデルにしていたことも知られている。

 

欧州での成功と逆輸入でのブレイク

 ともかくBSBが初のパフォーマンスを行ったのは結成から間もない93年5月、テーマパークのシーワールド・オーランドにおいて。彼らは地元のショッピングモールやレストランを回り、全米各地のハイスクールへも足を伸ばしながらファン・ベースを徐々に拡大していく。紆余曲折ありつつ94年にジャイヴと契約を結び、。翌95年にスウェーデンはストックホルムのシェイロン・スタジオに赴き、デニス・ポップの指揮下でレコーディングを敢行。そこから生まれたのが95年9月リリースのファースト・シングル“We Got It Goin' On”だ。同曲は全米69位という成績に終わるも、ドイツやオーストリア、スイス、オランダなどでTOP5入りを記録。先述したようにティーン・ポップが下火になっていたUSシーンに対し(94年6月にはNKOTBがひっそり解散していた)、欧州ではUK産のテイク・ザットやボーイゾーンらが独自にブームの土壌を拓いていたのだ。なお、この時期に前後して、もともとNKOTBのツアー・マネージャー経験もあったジョニー・ライトがBSBのマネージメントに加わっている。

 12月のセカンド・シングル“I'll Never Break Your Heart”はジャイヴ所属の職人ティミー・アレン(元チェンジ)によるボーイズIIメン様式のバラードだったが、これも流れに乗ってヒット。翌96年5月に登場した初のアルバム『Backstreet Boys』は本国USでのリリースこそなかったものの、同年4月に解散したテイク・ザットに入れ替わるかのようなタイミングも良かったのか、欧州諸国でNo.1を記録している。そこから最大のヒットとなった4枚目のシングル“Quit Playing Games(With My Heart)”は、翌97年にようやくUSでもリリース。これが全米2位まで浮上し、彼らは逆輸入的な形で本国でもブレイクすることになった。

 そんな凱旋劇を並行しつつ、97年にはセカンド・アルバム『Backstreet's Back』が登場。同日には1~2作目の楽曲を選りすぐった編集盤『Backstreet Boys』をUSでの初アルバムという位置付けで発表している。国ごとのディレイもありつつ、これらからは“As Long As You Love Me”や“All I Have To Give”といった珠玉の名曲群がヒットを記録。BSBの人気は世界的なものとなっていった。

 が、翌98年はBSBにとって試練の一年となった。ブライアンは持病の心臓病が悪化して手術を行い、デビュー期からのヒットの立役者だったデニス・ポップやハウイーの姉が他界。さらには成功の裏で行われていたブレーンたちによる利益の着服も明るみに出て、メンバーたちが発掘人のパールマンとマネージャーのライトを提訴、訣別するに至っている(後に示談が成立するが、パールマンの搾取にまつわる数々の訴訟は2014年まで続いた……)。こうした出来事に加え、パールマンとライトが同じフォーマットでインシンクを世に出していたこともBSBメンバーの心に大きな苦悩を与えていたようで、この時期に彼らは否応なく大人になることを迫られたと言えるのかもしれない。なお、悪党ながらもヤリ手のパールマンは以降もLFOやC・ノート、O・タウン、ナチュラル、US5といったボーイ・バンドを次々と世に出した(その多くに訴えられた)後、巨額の出資金詐欺などで獄中へ(2016年に獄死)。一方、パールマンと袂を分かったライトは引き続きインシンクのマネージメントを担当し、現在に至るまでジャスティン・ティンバーレイクを後見し続けている。

 

名声の代償

 さまざまな傷みに瀕しながらグラミーの新人賞ノミネートから始まった99年、やっと本国でも同タイミングでのリリースとなった3作目『Millennium』は全米チャート初登場1位を記録し、BSBの代名詞的なナンバー“I Want It That Way”(日本でもTVドラマ主題歌に起用)も各国でNo.1を獲得。デビュー時から関わるマックス・マーティンやクリスチャン・ランディンとのコンビネーションも完成型となり、新世紀に向けたBSBのカラーを強く決定付けることになった。翌2000年の4作目『Black & Blue』は専用ジェット機などで100時間かけて世界を巡るプロモーション・ツアーを敢行するなど、この時期の彼らは往時のNKOTBを凌ぐ勢いで社会現象化。USで初週160万枚という数字を記録した同作がインシンクと怒涛のセールス合戦の様相を呈したことで、彼らとインシンクとの間柄がビートルズ×ローリング・ストーンズやオアシス×ブラーにも似た図式で語られていたのもこの頃のことだ。

 3大ドームでの5公演が即完するという待望の初来日公演が実現した2001年には、初のベスト盤『The Hits: Chapter One』が日本でもミリオン・ヒットを記録。ただ、〈第1章〉に区切りをつける表題からも察せられるように、成功に伴うストレスがメンバー個々を蝕んでいたのは疑いなく、AJはアルコール依存症でリハビリ施設に入所したのもこの年のことだ。この後にはインシンクも活動休止を選んでおり、狂騒的なボーイ・バンド・ブームにも収束が訪れつつあった。いずれにせよ一時代を築いた彼らにも自分たちのアイデンティティーや個人での表現を考えて立ち止まる時が来るのは当然だろう。2002年にはいち早くニック・カーターがアルバム『Now Or Never』でソロ・デビューを果たすも、ソロ活動を優先したとして他4人との間に溝が生まれ、一時は4人がニック抜きでアルバム制作を始めるなど不和も表面化(後にニックとブライアンは1年ほど口をきかなかったことを告白してもいる)。結果、グループは〈第1章〉に幕を引くことになる。この活動休止状態は、2003年にトーク番組「オプラ・ウィンフリー・ショー」にAJが出演して依存症の克服を報告した際、サプライズで4人が出演するまで続いた。およそ2年ぶりに公の場で5人が顔を揃え、そこから関係修復が始まったのだろう。休止中にプライヴェートを充実させ、熱狂のプレッシャーやストレスからしばし解放されたBSBは、来日公演も含む2004年のツアーから改めてスタートを切ることになる(ニックはパリス・ヒルトンとの交際でゴシップ欄の常連となっていくのだが……)。

 

共に成長してきた大人のスター

 復帰シングル“Incomplete”が登場した2005年、時代は変わっていた。同時代に覇を競ったボーイ・バンドたちもいなくなったシーンではオーディション番組発のポップスターが主流となり、歌って踊るタイプのグループは懐かしいものとなっていたのだ。BSBもまた時流を睨んでスケールの大きいポップ・ロックやカントリー寄りの作風にシフトし、5年ぶりのアルバムとなる『Never Gone』もヒットを記録している。同作の立役者となったダン・マッカラはブライアンがCCMフォーマットで発表したソロ作『Welcome Home』(2006年)をはじめ、以降もメンバー個々のソロ作に貢献していく頼もしい相棒となった。

 そんななかで2006年6月には演技など他の活動への挑戦を理由としてケヴィンが脱退するが、この離脱は個人の意志を尊重した友好的なもので、他4人は〈ドアは常に開いたままにしておく〉と声明を発表。関係の破綻や活動休止を経験したことで、各々の理解や結び付きはより強くなっていたのだろう。新メンバーを探すリアリティーTVの企画などをすべて断った4人が次作に冠したのは『Unbreakable』(2007年)というタイトルだった。以降もケヴィンがライヴに飛び入りすることもあったが、4人編成での活動はそこから数年続いていくことになる。

 一方、2006年にテイク・ザットの再結成が成功したことをきっかけにNKOTBやボーイゾーンら往年の大物たちも再始動し、グループ・アイドルに対する再評価が定着しはじめた2009年、ずっと止まらずに歩んできたBSBは4人体制での2枚目のアルバム『This Is Us』をリリース。久しぶりにとびきりポップなダンス・サウンドを披露して現役ぶりを見せつけた。そして2010年のアメリカン・ミュージック・アワードにてNKOTBと合体した期間限定ユニットのNKOTBSBを結成。2011年には彼らのツアーが全米で大成功を収め、共に成長してきたファンたちの層の厚さと広がりを改めて体感することになったはずだ。その間にもメンバーのソロ活動は活発化していくが、それらがグループの活動に軋轢を生むものでないことはもはや明らかだった。そして、2012年にはケヴィンが再加入を発表して、ふたたび5人が顔を揃えている。ハリウッドの殿堂入りを果たし、〈ウォーク・オブ・フェイム〉に名前が刻まれた2013年、実に8年ぶりとなる5人でのアルバム『In A World Like This』が登場。リリース元のK・バーン(K-BAHN)とは5人のイニシャルを繋いだレーベル名だ。

 以降の5人は、近年ブリトニー・スピアーズやマライア・キャリーらが成功させている常設劇場でのゴージャスなレジデンシー公演、〈Backstreet Boys: Larger Than Life〉をラスヴェガスで開催。〈最速でチケットが売れたレジデンシー公演〉という記録も打ち立て、追加を重ねて2019年までの公演が決まっている。このたび登場したニュー・アルバム『DNA』はそんな多忙の合間を縫って制作された5年ぶりの新作となるが、先行で公開された楽曲を聴き、パフォーマンス映像を観るだけでも、年輪を重ねつつ華のある存在感はやはりスターのそれだと痛感させられるはずだ。BSBの曲を聴いて育ち、DNAを受け継いだ者たちが活躍するシーンにおいて、BSB自身がどのように自分たちの持ち味を証明していくのか、この先も楽しみで仕方ない。 *出嶌孝次

バックストリート・ボーイズのベスト盤。

 

メンバーのソロ作を一部紹介。

 

関連盤を紹介。

 

SHOW ME THE MEANING OF BEING LONELY
バックストリート・ボーイズを頂点へ導いたスウェーデンの職人たち

 2013年、BSBがハリウッドの〈ウォーク・オブ・フェイム〉で星の除幕式を行った際、ゲストとして祝福に表れたのがマックス・マーティンだった。現在は世界的なプロデューサー/ソングライターになった彼だが、その名が世に出る契機こそBSBの諸作だったわけで、両者は互いに名を高めてきた間柄とも言える。そして、そんなマックスを成功へと導いたのがいまは亡きデニス・ポップという男だ。

 デニス・ポップはスウェーデンのストックホルムで80年代からDJとして活動、レーベルを運営しながらハウスやレゲエなどのレコードを制作していた人だ。90年にはドクター・アルバンと組んで“Hello Afrika”などをヒットさせ、92年にはシェイロンなるスタジオを設立。そこで仕上げたのが後に世界中に広まるエイス・オブ・ベイスの“All That She Wants”(92年)である。以降もデニスは多くのユーロ・ポップ作品を生み出していくが、そこに弟子として加わったのが無名のバンドで活動していたマックスだ。やがてデニスの制作パートナーに抜擢された彼は、3Tやロビンを共同で制作している。その流れでBSBのデビュー曲を手掛けたデニスとマックスはインシンクのデビュー曲“I Want You Back”(96年)も制作。他にもクリスチャン・ランディンやラミ・ヤコブら才能豊かなクリエイターを抱えていたシェイロンは、チームで多くの仕事を請け負ってUSやUKにも名を売っていく。BSBのブレイクを受け、デニスは新人ファイヴのデビュー作『Five』(98年)で総監督を担当。並行してブリトニー・スピアーズも手掛ける予定だったが、その最中にデニスは癌に倒れ、35歳の若さで亡くなってしまった(ブリトニーのデビュー作はデニスに捧げられている)。

 その後、シェイロンのディレクターを継いだマックスはBSBとより強固に組んで『Millennium』を作り上げるが、そこに収録された“Show Me The Meaning Of Being Lonely”のMVはデニスに捧げられたものだ。シェイロンは閉鎖された2000年、マックスはマラトーン・スタジオを新たに設立し、より広いフィールドへ踏み出して現在に至るまで活躍していくことになる。 *出嶌孝次

 

DISCOGRAPHIC BACKSTREET BOYS
バックストリート・ボーイズを知るための8枚 
  

BACKSTREET BOYS Backstreet Boys Jive(1996)

欧州勢によるテディ・ライリー系のアップとティミー・アレンらUS制作陣の美しいバラードが交互に収まった、当時の方向性を窺わせる初のアルバム。ボーイズIIメンの初期を参照したようなバランスで、ユージン・ワイルド作の紳士的な“I'll Never Break Your Heart”はR&Bファンにも薦めたい。バキバキのNJSで迫るデビュー曲“We've Got It Goin' On”やジャクソンズ使いの“Let's Have A Party”などもいま聴くと実にフレッシュだ。

 

BACKSTREET BOYS Backstreet's Back Jive(1997)

いかにもシェイロン謹製なアップ“Everybody(Backstreet's Back)”で威勢良く幕を開け、真摯な名曲“As Long As You Love Me”など、前作の成果を受けて舵取りが明確になった2作目。US勢では優美なスロウ“All I Have To Give”をヒットさせたフル・フォース、フィッツジェラルド・スコットらが〈本格派〉の側面を引き出す仕事ぶり。素朴な“That's What She Said”ではブライアンが初めてソングライトと制作に関わっている。

 

BACKSTREET BOYS Millennium Jive/ソニー(1999)

ようやく同発となった本国USで初のNo.1に輝き、各国のチャートを制して3千万枚超えのセールスを叩き出した金字塔。代表曲“I Want It That Way”や“Show Me The Meaning Of Being Lonely”などマックス・マーティンとクリスチャン・ランディン組が大半を手掛け、全体的にドラマティックでマイルドな印象を増している。DA PUMPも歌った“Back To Your Heart”やジョーのカヴァー“No One Else Comes Close”が意外な聴きモノ。

 

BACKSTREET BOYS Black & Blue Jive/ソニー(2000)

人気が完全に社会現象と化すなか、またも凄まじい初週セールスで話題になった4作目。猛々しい幕開けの“The Call”や好青年なハーモニー・ポップ“Shape Of My Heart”で前作のムードを踏襲しつつ、5人の共作をベイビーフェイスがプロデュースした“Time”、当時のロドニー・ジャーキンスらしいビート感のアップ“Shining Star”といった大物コラボも実現させている。メンバー各人の関与やジャイヴ組による隠れた好仕事も聴きどころだ。

 

BACKSTREET BOYS Never Gone Jive(2005)

活動休止と関係修復を経て仕上げた5作目。5年ぶりという時代の変化や個々の興味を意欲的に反映してポップ・ロックやカントリーの要素が強調され、マックス・マーティンもDrルークと組んで雄大なスケールの泥臭い意匠に挑んでいる。ビリー・マンやジョン・シャンクスら初顔合わせの名前が並ぶなか、エモーショナルな先行ヒット“Incomplete”で抜擢されたダン・マッカラは以降もBSBやメンバーの活動を援護するキーマンとなった。

 

BACKSTREET BOYS Unbreakable Jive(2007)

厳かなアカペラで幕を開ける4人体制で初のアルバム。ダン・マッカラとガッチリ組んでナッシュヴィルで制作を始めたというプロセスもあって前作以上にアメリカン・ロック~カントリー色は濃いが、そこに90年代回帰のダンサブルなアプローチやレゲエの要素などを挿入しているのが特徴だろう。なかでもジョン・シャンクスの手掛けた名品“Helpless When She Smiles”で冴え渡る歌心は流石。日本では初めてオリコン首位を獲得した。

 

BACKSTREET BOYS This Is Us Jive/ソニー(2009)

時流のさらなる変化に呼応して従来の持ち味でもあるポップなダンス路線に立ち返った7作目。レッドワンを迎えたエレポップ“Straight Through My Heart”がスマッシュ・ヒットしたほか、T・ペイン、ソウルショック&カーリン、ブライアン・ケネディ、ライアン・テダーらと組んで同時代の電化アーバンな音世界に挑んでいる。ジム・ジョンシンによる劇的な表題曲、マックス・マーティンと久々に再会した“Bigger”など隅々まで佳曲揃い。

 

BACKSTREET BOYS In A World Like This K-BAHN/BMG Rights/ソニー(2013)

自分たちのレーベルから発表した5人の再結集作。マックス・マーティン&クリスチャン・ランディンによるアップの表題曲が導入から何とも感動的に響き、以降はマーティン・テレフェとモーガン・テイラー・リード、ダン・マッカラの三本柱がよりオーセンティックな意匠も含めて新たなBSB像を作り上げていく。EDMからフォークまで楽曲は多彩だが、ジェイムズ・モリソンがペンを交えたソウルフルな“Try”が抜群に素晴らしい。

 

 

JUST LIKE YOU LIKE IT
——このアルバムはバックストリート・ボーイズそのものなんだ
ニック・カーターが語る、5年ぶりのニュー・アルバム『DNA』に込められた思い

 オリジナル・アルバムとしては通算9作目にあたる『DNA』。このアルバムは、バックストリート・ボーイズにとって、新たな挑戦となる作品であるとともに、これまで自分たちの中に脈々と流れ、多大な影響を受けてきたサウンドを、バックストリート・ボーイズ流に甦らせた楽曲の数々が収録されている。まさにタイトル通りのアルバムに仕上げられた。「僕たち5人は性格も違えば、体験してきた音楽も違う。そんな個性を少しづつアルバムに反映した。一つのアルバムを作るために個性的な5人が一緒になって、バックストリート・ボーイズの〈DNA〉を形にした。このアルバムは僕たちそのものなんだ」とニック・カーターは語っている。

BACKSTREET BOYS DNA K-BAHN/RCA/ソニー(2019)

 5年ぶりの新作となる『DNA』は、2018年夏に発表した先行シングル“Don't Go Breaking My Heart”の世界的ヒットにより、その方向性を現実的なものにした。つまり、新しい方向性を示唆したシングルのヒットによって、アルバムのテーマ、規模感、その先にあるワールド・ツアーまで想像することができるようになったのだ。“Don't Go Breaking My Heart”はスチュアート・クライトンの作品で、彼がバックストリート・ボーイズのヴェガスでのレジデンシー・ショウを観に来て以来、交流を深め、ヴェガス公演に刺激を受けて書き上げた曲が何曲かアルバムに収録されている。特に、“Don't Go Breaking My Heart”は、久しぶりに5人が揃ってダンス・パフォーマンスを披露し、この2年間ヴェガスで培ってきたパフォーマーとしてのスキルアップを見せつけてくれた。そんな彼らの前向きで、常に新しいことに挑戦する姿勢は、2月10日に授賞式が行われるグラミー賞の〈最優秀ポップ・デュオ/グループ/パフォーマンス部門〉に、17年ぶりにノミネートされるという快挙を成し遂げ、25周年という大きなアニヴァーサリーに華を添えることになった。

 「僕たちはこの1、2年ずっとレコーディングを続けてきた。いろいろな曲を試してみたけど、僕たちの心に刺さる曲には巡り会えなかった。スチュアートが作ったこの曲は、アルバムの方向性を押し進め、僕たちがどこに進むべきかを明確にしてくれた。〈こんな曲を歌いたかった〉という意味ではなくて、僕たちをやる気にさせてくれた曲なんだ。僕たちは“Don't Go Breaking My Heart”で、自信を得ることができた」。

 『DNA』には多くのソングライター、プロデューサーの手による作品が集められた。一人のプロデューサーにすべてを委ねてしまうと、幅広いサウンドやソングライターとの出会いが叶わなかったという経験から、あくまでも素晴らしい楽曲との巡り合わせを大切にし、楽曲を第一に考えた選曲、レコーディング方法を選んだという。セカンド・シングルの“Chances”は、ライアン・テダー、ショーン・メンデスがソングライターに関わっている。ニック自身、ショーン・メンデスのファンであると公言しているが、時の流れを感じさせない素晴らしい楽曲と出会えたことに感謝していると言う。

 「この曲はシンガーとしての挑戦になった。説得力と強さをもって歌うためには、シンガーとして優れていなくてはいけない。完璧に歌うための挑戦だったよ」。

 カントリー界のジョシュ・キアーによる作品“Just Like You Like It”は、バックストリート・ボーイズのヴォーカルの魅力を引き出している。「僕たちはカントリー・ミュージックも大好きなんだ。カントリーの核は、曲、メロディー、歌詞にあるからね。フロリダ・ジョージア・ラインと一緒に“God, Your Mama, And Me”をレコーディングしたことがあるんだけど、カントリー・エアプレイ・チャートで1位になったんだ。そんな繋がりからナッシュヴィルでもアルバムのためのいい曲にも出会うことができたってわけさ」。

 冒頭にも書いたが、このアルバムは彼らにとっての新しい挑戦、という意味は、バックストリート・ボーイズが自分たちのDNAとなった、カントリー、アカペラ、R&B、ロック・バラードといったサウンドを歌うことにより、自分たちが何なのか、誰なのか?という問いに答えを出し、新しいバックストリート・ボーイズのチャプターの幕開けを飾ったということなのだ。3曲目として公開された“No Place”は、まさにロック・バラードで、コンサートでファンと一体になって歌う姿が想像できる。

 4曲目に公開されたのは、アカペラ・ソング“Breath”。彼らは以前リリース・イヴェントなどでアカペラを披露することがあったが、一つの楽曲としてレコーディングしたのは初めてとのことだ(以前イントロダクションとしてレコーディングはしている)。「デビューした頃、ミリ・ヴァニリの口パク問題があって、僕たちは自分たちの力を証明する必要があった。やるべきことのひとつだったんだよ、アカペラは。今はアカペラで僕たちが知られていたことを知らない人たちもいると思う。“Breath”はあの頃へのオマージュになっているよ」。

 映画「ピッチ・パーフェクト」のヒットやペンタトニックスの大ブレイクで、アカペラが音楽界のメインストリームを飾っているいま、バックストリート・ボーイズが25年間培ってきたアカペラ・パフォーマンスを収録する理由は、自分たちのルーツに戻るという尊い思いが含まれている。

 バックストリート・ボーイズは、1月の来日プロモーションを終え、ヴェガスでのショウに戻り、その後ワールド・ツアーに出る。ヴェガスを超えるステージを準備しているということだ。「誰もが見たこともないショウになるよ。僕たちはもっともっと上り詰めないといけないことに気付いた。ヒット曲は全部入れてファンが求めるショウにする。そして僕たちは次のレヴェルへと成長していくんだ」。バックストリート・ボーイズの第2章の旅は始まった。 *今泉圭姫子

『DNA』参加アーティストの関連盤。