エクスペリメンタルな音楽性と強烈なヴィジュアル、ギラつく派手なパフォーマンスで異彩を放つ音楽家、イヴ・トゥモア。ワープから発表された異形のアルバム『Safe In The Hands Of Love』(2018年)は数々のメディアから絶賛され、その年の年間ベストを総なめにした。
そんな彼から、さらなる飛躍を遂げた新作『Heaven To A Tortured Mind』がここに届けられた。本作でイヴ・トゥモアは、大胆にもグラム・ロックやソウル・ミュージックに接近。ある意味、ポップな作品だと言えるが、拭い去れない異物感や〈匂い〉は温存されている。この衝撃作をどう捉えればいいのか?
新進気鋭の批評家・伏見瞬がテキストで『Heaven To A Tortured Mind』に対峙し、本作の〈ロック性〉を掬い上げる。 *Mikiki編集部

ここに強烈な匂いを放つ音がある
君は匂いを嗅ぐことは好きか?
俺は大好きだ。ちょっとくらい、くさいくらいがちょうどいい。自分の体の嫌らしい部分の匂いを嗅ぎ始めると止まらないし、女の子の体から湧き立つ匂いを嗅いだら欲情するに決まってるし、10代のスピリットの匂いは何度嗅いでも胸が騒ぐ。ムラート・アルビーノ・モスキート・マイリビドー。〈匂わせ〉なんかどうでもいいから、おまえの匂いを嗅がせてくれよ。おまえの甘い場所。それだけ俺にくれよ。
ここに、臭気を宿した音がある。強烈な匂いを放つ音がある。自らを〈腫瘍〉と呼ぶ、フロリダ生まれで茶黒い肌の生き物が、〈拷問された心に続く天国〉と題された新作を解放した。この生き物、ショーン・ボウイ(Sean Bowie)の名と共に生を受け、今ではイヴ・トゥモアと名乗る生き物の、5枚目のアルバムが放つ匂いの成分分析を今から試みる。
匂いには良し悪しも好き嫌いもあるだろう。例えば俺は納豆やキムチのモワモワした臭みは好きだが、酢や乳製品のツンとした匂いは嫌いだ。自分の放屁の匂いは嫌いではないが、糞の匂いは全然好きじゃない。好みのうるさいあなたがたのために、ネット・ピープルの奴隷たるワタクシが、先陣を切って毒味をさせていただこうというわけだ。
キャッチーでいかがわしい、グラマラスなロック
まさかそんなものを〈作品〉に求めている人間はいないだろうが、念のため言っておくと、ここには実験精神もなければ、セールス戦略もないし、ましてや自由への意志もない。あるのはエレガンス。ただそれだけだ。
エレガンスとはなにか。低俗の中に高貴を、汚穢のなかに甘美を、異臭のなかに蠱惑を見いだすこと。境界侵犯の達人、ジェンダーとポップの枠組を破壊したインダストリアルの先駆者、ジェネシス・P・オリッジ(RIP!)から受け継いだエレガンスを、イヴ・トゥモアは『Heaven To A Tortured Mind』の中で思い切りぶちまけている。
エレクトロニックとインダストリアルとヒップホップとチルウェイヴとノイズを行き来する〈名付け得ぬ音楽〉を作り続けてきたイヴ・トゥモアは、下世話なほどの〈ロック〉を纏って、我々の前に再度現れた。前作『Safe In The Hands Of Love』におけるマッシヴなビートと歌の強調も印象深い変化だったが、今作には4ビートのドラミングがあり、歪んだギターのソロがあり、爬虫類めいた歌声がある。紛う事なきロック・サウンドである。それもキャッチーでいかがわしい、グラマラスなロックだ。
記憶にこびりつくキャッチーさは、リズミカルな韻律の使用と、メロディアスなフレーズをリフレインさせるベース・プレイに由来する。ベースの音がクリアに聴こえるのは、本作の聴き逃しがたい特性だろう。

ポスト・パンク、V系、マイケル・ジャクソン、エレクトリック・マイルス……
収録されている12の楽曲はすべてシンプルな構造を持っていて、1つか2つのパターンの繰り返しでできている。しかもほとんどの構成音は、ハード・ロックやブルース・ロックで用いられるマイナー・ペンタトニックのスケールだったりする。他の曲では6度、4度、3度あたりの音を多用しており、その和音構成はポスト・パンク期のバンドや日本のヴィジュアル系バンド、例えばキュアーやX JAPANのシングル曲を思わせる。つまるところ、今聴くには非常にベタな、ダサさぎりぎりの楽曲なのだ。
そこにサウンド・コラージュ的な断片を散りばめ、エレクトロニックな音処理を施し、トリップホップ・マナーのループ感あるグルーヴを加えることで、ホントの糞に陥るギリギリで踏みとどまった、独特の毒気と匂いを醸し出すサウンドが産み落とされる。
本作を聴いていると、様々な音楽的記憶がフラッシュバックする。“Identity Trade”のイントロのドラム・ブレイクはマイケル・ジャクソン“Rock With You”を彷彿とさせるし、“Dream Palette”の、あらゆるサウンドが溢れかえるごった混ぜの感覚は、エレクトリック期のマイルス・デイヴィスの混沌を思い起こさせる。“Kerosene!”の、ギターのアルペジオとシンセのアンサンブルはコナン・モカシン、アリエル・ピンク的なインディー・トラッシュ風味を感じさせ、“Romanticist”の、E♭→D→Gm→B♭のループが生み出す題名通りのロマンティシズムは、まるで“今夜はブギーバッグ”のようだ。
70年代の匂いを濃く漂わせるレコード『Heaven To A Tortured Mind』
ランダムに思い出した固有名を羅列してみたが、挙げた名前には一つの共通点がある。1970年代。MJとマイルスは直接的に70年代の録音だし、アリエル・ピンクや小沢健二は70年代後半のディスコやAORを自らの音楽の参照点にしている。
本作のクレジットにはいくつかの引用元が記載されているが、“Kerosene!”の暑苦しい泣きのギター・ソロは英国のハード・ロック・バンド、ユーライア・ヒープの76年の楽曲“Weep In Silence”から引っ張ってきているし、他にもイングランドというプログレ・バンドの“Three Piece Suite”、ウィリー・ハッチというソウル・シンガーの“A Love That’s Worth Having”など、70年代付近に録音・発表された楽曲が多く使用されている。さらには70年代の韓国の歌謡ファンクが2曲も引用されている始末だ。
付け加えるならば、ショーン・ボウイが敬愛するスロッビング・グリッスル(多くの方が知るようにこのバンドのフロントマン/ウーマンがジェネシス・P・オリッジだ)も70年代に産声を上げたバンドだ。『Heaven To A Tortured Mind』という作品は、70年代という時代の匂いを濃く漂わせている。

未来なき70年代という時代
そのいかがわしさがなにより思い起こさせるのは、70年代初頭のグラム・ロックだろう。とりわけロキシー・ミュージック、それもブライアン・イーノが在籍していた頃の、ギターとサックスとシンセ・ノイズが渾然一体となったカオティックなソウル・ミュージックに、本作は接近している。
今回のオープニング・トラック“Gospel For A New Century”の、ギター・ブラス・エレクトロニクスが溶け合って一つの音塊を作る様は正にロキシーのそれだ。ミュージック・ビデオで髪を赤く染めたり、まがりくねった角を頭につけたりするショーン・ボウイの異形のルックスも、ラメ付きのジャケットとメイクで派手に着飾っていたロキシーと同質の精神・意識を感じさせる。
70年代とは夢見る対象のない時代だった。世界を変えられるという希望で胸を膨らませた60年代はどこへやら。目的を見失い、連帯は瓦解し、反権力を自称する者達が権威主義者の本性を曝け出し始める。冷戦構造は温存されたまま、アメリカもヨーロッパも不況に喘ぎ、労働者やマイノリティーの暮らしは苦しく、生存すら脅かされる。この先にいいことなんか別にない。むしろ世界はもうすぐ終わってしまうのかもしれない。デヴィッド・ボウイが、『The Rise And Fall Of Ziggy Stardust And The Spiders From Mars』(72年)で〈世界は5年後に滅びる〉という物語を描いたのは、そういう時代だったのだ。実際5年後には、世界に対して直接的に〈ノー・フューチャー〉を宣告する若者達が現れた。
イヴ・トゥモアはロキシー・ミュージックの〈エレガンス〉を現代によみがえらせる
ロキシー・ミュージックも、夢見る頃を過ぎた時代の若者達だった。72年のファースト・アルバム『Roxy Music』に収録された、ロボット/アンドロイドへの愛欲に溺れる歌“Re-Make/Re-Model”(ご丁寧に〈CPL593H〉という製造番号までコーラスされている)で、ブライアン・フェリーは歌う。〈次が最高の時だ、わかってる/だけどもし「次」がなかったら?〉。この〈次〉のない感覚が、70年代を規定していた。あるいは“If There Is Something”の〈君の大事な宝物を空中に放り投げて、落ちていくのを眺めよう〉という言葉。大切なものなんてもう大切じゃない。そんな感覚に、若者たちは囚われている。
けれども、暗い未来を背負ったはずのその音には、奇妙なほど脳天気な明るさがあった。先がないからこその瑞々しさが、作品世界を満たしていた。下品な快楽主義が、強烈な美しさに転化していた。下世話で下手くそな初期のロキシー・ミュージックは、間違いなく〈エレガント〉なバンドだった。
イヴ・トゥモアの『Heaven To A Tortured Mind』は、現代に生まれ変わった『Roxy Music』だ。“Medicine Burn”の狂喜乱舞のダブ・ファンクに乗せてショーン・ボウイは声を上げる。〈精神的なギロチンで切り落とされた頭〉。メンタルの病に、脅かされている命。〈次〉が見えないという点で、今の時代は70年代と類似している。文字という視覚記号の暴力性がネット・メディアによって露わになり、気候変動と経済不安の板挟みに社会は陥り、大勢の人々が恐怖心を口実に他者を排除する。
逃げ道なんてない、病の中でのたうちまわる匂いを〈エレガント〉な音に変えろ
そして、追い打ちをかけるかのような、人類規模のパンデミック。うなだれるように毎日は続く。“Folie Imposée”の、ダフト・パンクばりのデジタル・ロックの上で、ボウイが繰り返している。マンデー・チューズデー・ウェンズデー・サーズデー・フライデー・マンデー・チューズデー・ウェンズデー・アイ・キャント・エスケープ。反復の日々に、逃げ道なんてどこにもない。屈辱と倦怠に耐え続けるしかない。
そんなメッセージを含んでいるはずなのに、品のない〈ロック〉の音とボウイの声から響くのは〈なんでもできる・やってやる〉という自信の表出だ。聴く者を力強く鼓舞するかのような勇敢さだ。〈どこにもいけない〉という認識が、自由のフィーリングに通じているからこそ、『Heaven To A Tortured Mind』は紛れもなく〈エレガント〉な作品である。
最初から自由を目指したわけではない。時代の病の匂いを嗅ぎ、その恥部をなめ回し、濃厚接触を果たす。体と体が擦れ合う。犯し、犯される。出口なしの世界で、退廃的なまぐわいを繰り返す内に湧き上がってきた自由のフィーリングを、〈自律的に異常増殖する細胞の集まり〉を名乗る生き物はキャプチャーしたに過ぎない。虐待された精神にだけ宿る豊かな心を、表現してみせたに過ぎない。『Heaven To A Tortured Mind』が醸し出す濃厚な匂いは、くさいものに蓋をせずに(できずに)、時代の病の中でのたうちまわる人間に染みこんだ匂いなのだ。
当たり前の話だが、イヴ・トゥモアの音の中に、〈希望〉も〈解決〉も〈救い〉もない。〈赦し〉なんてあるわけがない。あるのは時代の中で発酵された匂い。そして、それを甘美な音楽へと変える精神だけだ。俺たちはそのエレガンスに、ただただ溺れていればいい。己の正しさを証明するために戦う必要はない。美しき腫瘍に冒されてしまえばいい。ほしいものはすべてここにある。世界のことなんて知るか馬鹿。さぁもっと、お前のその腐った匂いを、思いっきり嗅がせておくれよ。

