「君の名前で僕を呼んで」を彩った『音楽図鑑』の収録曲
スフィアン・スティーヴンスやサイケデリック・ファーズ、ジョルジオ・モロダーらの楽曲が使用されたことでも話題になった、ルカ・グァダニーノ監督作「君の名前で僕を呼んで」(2017年)。83年の南イタリアを舞台にしたこの作品のなかで、ひときわ印象的に使われていたのが坂本龍一によるふたつの楽曲だった。
ひとつは83年にリリースされた『Coda』(映画「戦場のメリークリスマス」サントラをピアノ曲にアレンジしたアルバム)収録の“Germination 発芽”で、もうひとつは84年にリリースされた『音楽図鑑』が初出の“M.A.Y. IN THE BACKYARD”(劇中で実際に使われたのは、96年のセルフ・カヴァー集『1996』に収録されたヴァージョン)。特に後者は映画の前半で二度使用されており、出会ったばかりの主人公2人が次第に打ち解けあっていく心情を鮮やかに彩っていた。
今年3月、その『音楽図鑑』がアナログ盤でリイシューされた。これは、昨年のYMO結成40周年リイシューの流れを受けたもので、坂本のソロとしてはアルバム『B-2 UNIT』(80年)と『左うでの夢』(81年)、シングル“WAR HEAD”(80年)と“Front Line”(81年)も、すでにアナログ盤でリイシュー済みだ。
初期作のなかでもひときわ人気が高く、高橋幸宏やロバート・パーマーも愛聴していた『音楽図鑑』。収録曲が「君の名前で僕を呼んで」に使用されたことで若いリスナーにもあらためて発見された本作が、いまアナログ・レコードというフォーマットでリイシューされる意義はとても大きい。ピアノを弾く坂本の影が蟻(アリ)になった、不気味かつユーモラスなジャケット(立花ハジメがデザインを担当)や、坂本自身のメモやイラスト、楽譜などがまさに図鑑のように配置されたインナー・スリーヴなど、ヴィジュアル的にもそそられるものがある。
YMOという〈仮想敵〉を失って
ソロでは通算4枚目となる『音楽図鑑』は、83年のYMO散開後にミディレコードから発表された初のアルバムである。レコーディング自体は82年10月からスタートしていたが、実は前年の『テクノデリック』リリース後にYMOの活動は一旦ピリオドを打つことも検討されており(諸般の都合で先延ばしとなったが)、そういう意味で本作は〈YMO散開〉を見据えたうえでの制作ということになる。
『B-2 UNIT』や『左うでの夢』では、当時所属していたYMOとの距離感を考えながらの制作を行っていた坂本は、そのYMOといういわば〈仮想敵〉を事実上失ったことにより、この先どんな作品を作ったらいいのか、どんな方向へ向かえばいいのかを、もう一度捉え直す作業が必要になった。そのため、これまでのように明確なテーマやコンセプトを決めぬまま、毎日スタジオに入っては、坂本曰く〈まるでシュールレアリズム的な自動書記のように〉浮かんでくる楽曲を、最初はただ録りためていったという。未完成のデモやスケッチなども含め、徐々に曲が増えていくなかで、ようやくアルバムの青写真が見えてきたというわけだ。
フェアライトCMIと山下達郎の貢献
しかしながら、ふたたび始まったYMOのアルバム・レコーディング(『浮気なぼくら』と『サーヴィス』、共に83年)や、大貫妙子の『シニフィエ』(83年)、矢野顕子の『オーエス オーエス』(84年)などのプロデュース、さらにはYMO散開ツアーやCM音楽のレコーディングなどが重なり、一時『音楽図鑑』の制作は中断を余儀なくされる。このときはリリース日も未定で、特に締め切りもなかったソロは、後回しということになったのだろう。その結果本作には、坂本の言葉を借りれば〈自分から出てくるものを待つ作業〉と、〈出てきたものを育てる作業〉という二つの側面が内在することになった。
また、84年4月から再開したレコーディングでは、オーストラリア製のシンセサイザー/サンプリング・マシーン〈フェアライトCMI〉が導入されたことも、坂本にとって大きな出来事だった。同機に搭載された、〈ページR〉と呼ばれる簡易シーケンサー機能により視覚的な音楽作りが可能となった坂本は、そこからインスパイアされた楽曲を数多く生み出していく。冒頭で紹介した“M.A.Y. IN THE BACKYARD”も、〈ページR〉によって複数のシーケンスを組み合わせながら作り上げた楽曲だ。ちなみに曲名の〈M.A.Y.〉とは、当時高円寺にあった自宅の裏庭に集まる野良猫、モドキ、アシュラ、ヤナヤツの頭文字を組み合わせたもので、猫たちが軽快に歩き回る様子を見事に音像化している。
レコーディングには山下達郎が、例えば“TIBETAN DANCE”や“SELF PORTRAIT”、“羽の林”のギターや“PARADISE LOST”のヴォイスなどで参加している。ちょうど同時期に竹内まりやのアルバム『VARIETY』(84年)のレコーディングがあり、プロデューサー/アレンジャーだった山下が隣のスタジオにいたため、お互いのブースを行き来しながら楽器やヴォーカルのダビングを手伝い合っていたという。