様々なジャンル、国の音楽家・アーティストたちとコラボレーションしてきた坂本龍一。彼の音楽はコラボレーターたちにどんな風に聴こえていたのか、共同作業を通じて坂本が、彼らに置いてきたことを取材する。
音楽の縁の少し外側を模索していた教授
僕には坂本龍一さんという果てしなく深遠な音楽家・人物を語る事はできません。あくまで、坂本さんと過ごさせて頂いた時間の中で、僕が感じ取った幾つかの記憶と考察です。
僕が坂本さんと知り合ったのは90年代の終わり。坂本さんから連絡を頂いたことから始まりました。その頃の記憶として、坂本龍一さんという音楽家は音楽の縁(ボーダーと言ってもいいのかも知れません)の少し外側、ジャンルや形式と呼ばれるものの縁の少し外側を模索していたと感じています。それは多くの先鋭的かつ冒険心に溢れた音楽家と共通する部分です。『Minha Vida Como Um Filme “my life as a film”』は映画音楽として空間性や音の振動へのアプローチがおこなわれており、坂本さんの持つ抽象的側面が色濃く現れた作品だと言えると思います。
〈坂本さんは表現の中に何を求めていたのか?〉
僕なりの感覚的な答えは〈美しさ〉だと感じます。(坂本さんは「半野くん、それは違うよ」と笑うかもしれませんが……)水・風・土などの自然の中の非生命による美しさ、樹木・動物などの生命による美しさ、そして人間の感情の中にある美しさ。これらの美しさは〈厳しさ〉〈醜さ〉と表裏一体、いや表裏さえないものだと言うべきでしょう。この模索が最も有機的かつ独創的に融合されたのが後期の傑作である『out of noise』と『async』だと考えます。
坂本さんの音楽的冒険から生まれた2枚のアルバムの連なりは、美しく厳しい山脈の様に響き、ただ静かにそこに存在します。ただそこに存在するのです。ここで聴かれる曲達は音楽の脱構築ではなく、脱構築されたものの中に潜む自然の構築、無意識の構築を音楽という曖昧かつ創造的な時間として凍結させた音の結晶体なのだと僕には感じられます。坂本さんはよくフィールドレコーディングをしていました。実際に録音することもあれば、自分自身に感覚として記録していた様にも感じます。坂本さんにとってのフィールドレコーディングとは単なる音素材の収集ということ以上に、非音楽の中に音楽だと感じる瞬間や時間を発見し、それを掴み取り、その先の創造物へと昇華させるプロセスの一つだったのではないかと想像します。違った場所、空間、時間の音が混ざり合う。更に、楽器に代表される人間の生み出した音と溶け合う。やがて、ゆっくりと静かに創造物としての音楽が浮かび上がる……。その音楽の輪郭をどこまで描くのか? ぼやかせるのか? 絵画や陶芸にも似た、そんな流れを想起させます。その判断の全てが、坂本さんが感じる“美しさ”であったのではないかと僕は想像しています。
『async』のリリース時に青山で行われていた特別視聴会。真っ暗な視聴会場で坂本さんと2人きりでアルバムの中の幾つかの曲を聴かせて頂きました。僕が「良いですね」と言うと、坂本さんは「だよね、良いよね」とまるで他者の音楽を語るかの様に笑っていたことを今も思い出します。もはやその音楽は坂本さん個人のものではなく、自然や世界や時間との共作物だったのかもしれません。
半野喜弘(Yoshihiro Hanno)
1968年、大阪生まれ。音楽家・映画監督・脚本家。映画音楽からオーケストラ作品、電子音楽まで幅広く活動する国際的に著名な音楽家/作曲家。1997年にヨーロッパで発表した電子音楽が高く評価され、2000年よりパリ、東京を拠点に世界で活躍中。