80年代後半から活動し、UKダンス/レイヴカルチャーの発展に多大な貢献をはたしたユニット、808ステイト。そのベーシスト兼キーボーディスト、アンドリュー・バーカーの逝去が、現地時間11月7日に報じられた。死因は不明。ユニットは〈彼の家族や友人は、人々がプライバシーを尊重するように求めていますが、彼が個性と音楽を通してあなたたちにもたらした喜びを忘れないでください〉とツイートしている。
Its with a heavy heart to inform you of the passing of Andrew Barker . "His family and friends asks that people respect their privacy at this time but remember him for the joy he brought through his personality and music. You’ll be sadly missed” pic.twitter.com/cPR8W3byJl
— 808ステイト (@state808) November 7, 2021
今回は、パンクレーベルKiliKiliVillaの運営スタッフであり、DJ YODAとして日本のトランス/プログレッシヴハウスの躍進を支えてきた与田太郎が追悼コラムを執筆。故人が作り出した音楽に受けた感動や、来日公演での思い出などを綴ってくれた。 *Mikiki編集部
最初のUK産ダンスアルバム『90』
808ステイトのメンバー、アンドリュー・バーカーが53歳の若さで亡くなった、とても残念なことだ。彼の訃報はハッピー・マンデーズのSNSアカウントがいち早く伝えていた。90年代を共に生き抜いてきた仲間にとってはつらいニュースだったはずだ。先週の週末は僕も追悼の意を込めて808ステイトの『90』(89年)を最初から聴いた。『90』はアシッドハウスの嵐の直後、というかある意味その最中にリリースされた最初のUK産ダンスアルバムだ。これまでの人生でもう数百回は聴いたであろう“Pacific”※はやはりそのときも特別に響いた。
僕がはじめてイギリスを訪れたのは89年の12月、まさに『90』が発売になった直後のことだった。ピカデリー・サーカスにあったバカでかいタワーレコードの驚くほど広い壁面にディスプレイされていたのはソウルIIソウルの『Club Classics Vol. 1』、デ・ラ・ソウルの『3 Feet High And Rising』、11月に発売となったストーン・ローゼズの“Fools Gold”、そして発売直後の『90』だった。この4タイトルが広い壁を埋め尽くすように並んでいた。イギリスはダンスの季節の真っ最中だった。
〈何かを信じていなければ成り立たない音〉を彼らは鳴らした
808ステイトは87年にマンチェスターで結成、当初はグラハム・マッセイとジェラルド・シンプソンでスタート、すぐにシンプソンが脱退し、彼はア・ガイ・コールド・ジェラルドとして活動を開始(僕がロンドンを訪れたときには街中に彼のパーティーのポスターが貼ってあった)、そのあとにアンドリュー・バーカーとダレン・パーティントンが参加する。そこから彼らは90年代を通して4枚のアルバムをZTTからリリース。イギリスでアシッド・ハウスが猛威を振るったのが1988年、その当時はまだパーティーでプレイされるUK産のトラックはまだそれほどなかったはずだ。DJはシカゴやデトロイトなどのUS産のトラックを中心にプレイしていたし、アンドリュー・ウェザーオールやテリー・ファーリーたち〈ボーイズ・オウン〉のDJやポール・オークンフォールドによるリミックスが量産されるのは90年からだ。
808ステイトはそういう意味でパイオニアだった。『90』は当時のUS産のダンストラックと明らかに感触が違う。同じリズムマシーンとサンプラーを使いながらも出てくるサウンドはコズミックで美しいヴィジョンを持っていて、〈何かを信じていなければ成り立たない音〉といっていい。80年代後半、まだダンスビートはヒップホップからの影響が強く、『90』収録曲の多くは基本ブレイクビーツだ。だからじっくり聴きこんでいるとこのアルバムにはその後のケミカル・ブラザーズの萌芽がはっきり聴き取れる。
『90』はダンスミュージックが決定的なポップミュージックになる前の過渡期だったからこそ生まれたアルバムであり、その洗練されたスタイルはその後に続くダンスシーンの指針ともいうべきアルバムとなった。翌90年からはロックもポップもダンスビートを取り入れはじめる、そしてパーティーやレイヴの規模もどんどん大きくなり新しいムーブメントへと発展し。90年代という時代が始まる、その端緒に808ステイトはいた。
アンドリュー・バーカーの音楽、そして笑顔を忘れない
それから僕自身もDJやパーティーをはじめる、90年代前半にはライブハウスでインディーロックのパーティーで、後半からはレイヴやクラブミュージックのDJとしていったい何回”Pacific”をプレイしただろう。オーディエンスとして聴いたことも数えきれないが、思い出深いのは90年の秋、彼らがポール・オークンフォールドと一緒に来日した〈Manchester Night〉だ。会場は渋谷QUATTRO、そのときのオーキーのDJがマンデーズの“Kinky Afro”からスタートして切れ目なくアシッド・ハウスに展開していく流れに衝撃を受け、808ステイトのステージで炸裂した“Pacific”にノックアウトされた。会場にはそれほど多くの人がいたわけではなく、どこか暗い表情をしたグラハム・マッセイとは対照的にアンドリューは満面の笑顔だったのが印象的だった。
それから16年後、代官山AIRに彼らが来日した際、DJブースから出てきたアンドリューに話しかけたとき、彼は16年前と変わらぬ笑顔で答えてくれた。もちろんその日のラストナンバーは“Pacific”だった。
さようならアンドリュー・バーカー、あなたの笑顔と音楽を僕は忘れないだろう。