ブライアン・ウィルソンが82歳で死去した。

この訃報は日本時間6月12日の未明、ブライアンの公式SNSを通じて発表された。なお、詳しい死因などについては明かされていない。

1942年、カリフォルニア州イングルウッドに生まれたブライアン・ウィルソンは、兄弟のデニスとカール、従兄弟のマイク・ラヴ、そして友人だったアル・ジャーディンとともにペンデルトーンズというバンドを結成。バンドはウィルソン兄弟の父親であったマレーがマネージャーを務める形で、1961年にキャンデックス・レコードよりシングル“Surfin’”でデビューを果たす。このときのシングルレコードにバンド名が〈The Beach Boys〉と表記されていたことをきっかけに、以降はビーチ・ボーイズとして活動していくこととなる。

“Surfin’”は大ヒットには至らなかったが、バンドに可能性を感じたマレーの尽力もあり、翌1962年にキャピトル・レコードと契約する。レーベル移籍後に発表したシングル“Surfin’ Safari”がヒットすると、同年10月にはデビューアルバム『Surfin’ Safari』をリリース。耳馴染みのいいメロディーはもちろん、サーフィン文化を筆頭に当時のカリフィルニアを象徴する題材を扱った楽曲群は、若者たちに広く受け入れられた。

その後バンドは『Surfin’ USA』、『Surfer Girl』(ともに1963年)とアルバムを立て続けに発表。『Surfer Girl』からはプライアンがプロデューサーとしてクレジットされ、レコーディングでは外部からミュージシャンを招くなど音楽的探求が強まっていく。

まだ20代前半だったブライアンは、過酷なツアー活動から早々と撤退するとスタジオワークに専念。また、当時ロネッツ『Be My Baby』などを手がけたフィル・スペクターの〈ウォール・オブ・サウンド〉に魅了されたほか、ビートルズが傑作『Rubber Soul』をリリースしたことを受けてより実験性の高い作品づくりへと没頭していく。

1966年、バンドは多重録音を駆使したアルバム『Pet Sounds』を発表。同作はビーチ・ボーイズ名義ではあるものの、外部のスタジオミュージシャンと制作したブライアンのソロアルバムとしての見え方が強い。なお、本作が日本でCD化された際には山下達郎がライナーノーツを寄稿している。

『Pet Sounds』には収録されなかったが、同年にシングルとして発表した“Good Vibrations”も大ヒットを記録。バンドの次なるアルバム『Smile』の制作に着手するも、ブライアンの精神状態が悪化したこともあり発売中止に。『Smile』は〈最も有名な未発表アルバム〉として長らく語り継がれていたが、2004年にブライアンがヴァン・ダイク・パークスらと再構築してリリースした。2011年には発売中止となったため日の目を見なかった当時のセッション音源をまとめた『The Smile Sessions』もリリースされている。

1988年、ブライアンはソロ1stアルバム『Brian Wilson』を発表。メンバーの死やバンド名を用いたツアー活動による訴訟問題などによりビーチ・ボーイズは内部分裂を起こす。その後、しばらくは各自での活動が続くが、2000年代に突入するとメンバーが歩み寄る場面も増え、徐々にメンバー間の亀裂は修復されていった。

ブライアンは2008年にキャピトル復帰作としてアルバム『That Lucky Old Sun』をリリース。フランキー・レインやルイ・アームストロングらが歌唱した名曲“That Lucky Old Sun”をコンセプトに、60年代にビーチ・ボーイズ用に制作していた楽曲などが収録された同作は大きな話題を集めた。

2012年、ビーチ・ボーイズのデビュー50周年の一環として制作されたアルバム『That’s Why God Made the Radio』に参加。ソロではアル・ジャーディンも参加した『No Pier Pressure』を2015年にリリースした。ちなみに同年にはブライアンの伝記映画「ラブ&マーシー 終わらないメロディー」が日本公開された。

なお、ブライアンの死に寄せてボブ・ディランが〈長年彼の音楽を聴き、その才能に感嘆してきたことを思い出した〉とコメントしたほか、日本でも和田唱(TRICERATOPS)高田漣浜崎貴司片寄明人トクマルシューゴ西寺郷太ミト(クラムボン)佐藤優介らがブライアンとビーチ・ボーイズに対する自身の思いを投稿している。

ここ日本にも『Pet Sounds』や『Smile』をピックアップしたワールドツアーなどで来日してくれたブライアン・ウィルソン。スライ・ストーンの訃報に世界中が悲しむなか、またしても辛いニュースが届いてしまった。

彼がいなければ現在の音楽史は全く違ったものになっていたに違いない。アメリカを、カリフォルニアを代表する真のポップスの探究者として、彼の生み出したメロディーは今後も鳴り止むことはないだろう。