音楽の息づかい、それをそのままに伝えてくれる歌とバンドネオン――波多野睦美のニューアルバムの魅力

 歌とバンドネオンによるアルバム『想いの届く日 El día que me quieras』はそれぞれの領域で日本を代表するアーティストである波多野睦美(メゾ・ソプラノ)、北村聡(バンドネオン)、それに田辺和弘(コントラバス)を加えた編成のアルバムだ。取り上げられている作品は、アルバムタイトルにもなったガルデルの名曲“想いの届く日”に始まり、ピアソラ、ラミレス、グアスタビーノ、メンデスといった南米の作曲家、さらにはロジャース、パーセル、プーランク、アーン、モリコーネと幅広い。と、ここまで基本的な情報を読んで、ちょっとゾクッとした感覚を持たれた方は、おそらく本当に〈歌〉というものが好きな方に違いない。

 バンドネオンという楽器はもちろんタンゴの世界で活躍する楽器だけれど、そもそもは移動用オルガンのような役割を持っていて、歌や様々な楽器と一緒に世界を旅していたはず。その蛇腹は言ってみれば人間の肺であり、空気を出し入れすることで音を出すという点では、歌そのものにとても近い。その単純な発見~共に呼吸をする歌とバンドネオン~を基本に、様々な時代と地域の〈歌〉から織り上げられたこのアルバムは、本当にシンプルな美しさと、歌うことの喜びに満ちているのである。

 波多野と北村の出会いは今から10年ほど前。

 「以前、平河町ミュージックスというコンサート・シリーズがあり、そこで歌手の松田美緒さんと共演したことがありました。それを波多野さんの知り合いの方が聞いていらしたのです」と北村。

 「それで一緒にやったら素敵なのでは、と勧められたのがきっかけでした」と波多野。「その後、王子ホールでの波多野さんのシリーズ〈歌曲の変容〉に呼んで頂いて、ギターの大萩康司さんと3人で共演したのが最初でした」(北村)。

 王子ホールの方に記録を調べて頂くと、それは2013年6月18日の〈歌曲の変容 第8回〉のコンサートであった。

 「その時のプログラムにはガルデル“想いの届く日”も入っていましたが、ギョーム・ド・マショーの作品などにも取り組んでいました。そこからふたりで一歩一歩作り上げて来た世界が、ようやく今回、アルバムという形になったという感じです」(波多野)

波多野睦美, 北村聡 『想いの届く日 El día que me quieras』 SONNET/キングインターナショナル(2022)

 ピアソラがミルバと共演したように、バンドネオンと歌の組み合わせはタンゴの世界では当然のものだったけれど、ガルデルやピアソラの書いた歌は、さらにその世界を興味深いものにして来た。彼らが示した可能性を、波多野と北村はさらに広げてみせたと言えるだろう。そしてそこにコントラバスが加わることで、さらに奥行きが増して来る。タンゴ系の楽曲だけではない。アルバムの第3曲目にパーセル“ソリチュード”が収録されているが、波多野&北村に田辺が加わる事で、パーセルの音楽がとても新しいものに聞こえて来る。

 「私にとってはエマ・カークビーの歌うパーセルがひとつの理想形であったのですが、今回の録音を通して、パーセルの音楽の持っている世界の新しい一面を見たという想いがしました。それはバンドネオンという楽器のお陰ですし、コントラバスを加えるというアイディアを実現できたのも本当に良かった」(波多野)

 そして、歌&バンドネオン&コントラバスによるフランスの歌曲、アーンの“クロリスに”も嬉しい驚きをもたらしてくれた。

 「ピアノのために作曲された音を2つの楽器に割り振ることで、違った味わいが生まれました。そんな風にバンドネオンに助けられることが多かったと思います」(波多野)

 「バンドネオンで演奏するにはキーが難しいとか、色々な困難があるのですが(笑)、しかし、それも楽しい経験でした」(北村)

 ロジャースの“私のお気に入り”、モリコーネの“もし~ニューシネマパラダイス”の2曲も、それぞれの歌のファンがいたら、きっと新しい発見をされるはず。1曲目から15曲目まで、楽曲の調の選択や並び方にまで心を配ったこのアルバムは、録音に関わったスタッフ、デザインチームを含め、本当に多くのアーティストが関わった素敵な1枚となった。

 


波多野睦美(Mutsumi Hatano)
古楽から現代の作品にわたるレパートリーをもち、独自の存在感を放つメゾ・ソプラノ歌手。宮崎大学卒業後、トリニティ音楽大学声楽専攻科修了。シェイクスピア時代のイギリスのリュートソングでデビュー。〈歌曲の変容〉と題したシリーズを2005年から王子ホールで続け、古楽から現代にいたる独自の歌曲プログラムを開拓。2011年から〈朝のコンサート〉シリーズを企画。

北村聡(Satoshi Kitamura)
関西大学在学中にバンドネオンに出会い小松亮太、フリオ・パネに師事、世界各国のフェスティバルに出演。2011年、ピアソラ五重奏団元ピアニスト、パブロ・シーグレルのアジアチームに加入。2014年、〈B→C〉に出演し好評を得る。2021年、ピアソラ作曲“シンフォニア・ブエノスアイレス”の日本初演に参加。NHK「青天を衝け」をはじめ様々な録音に参加、繊細な表現には定評がある。

 


LIVE INFORMATION
『想いの届く日』CD発売記念コンサート
2022年11月3日(木)宮城・仙台 市民活動シアター
開演:14:00
2022年11月5日(土)茨城・水戸 水戸奏楽堂ー
開演:14:00
出演:波多野睦美(メゾ・ソプラノ)/北村聡(バンドネオン)
http://hatanomutsumi.com/