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オーストラリアから英国へ

 とはいえ、楽曲そのものの絶大な認知度に比べれば、彼ら自身の歩みについてはさほど知られていないのかもしれない。ビー・ジーズはバリー・ギブ、ロビン・ギブ、モーリス・ギブの3兄弟。出身は英国王室領のマン島で、バリーは46年生まれ、双生児のロビンとモーリスは49年生まれだ。55年に父の故郷であるマンチェスターに引っ越した彼らは、最初のバンドとなるラトルスネイクスを友人たちと結成していたというからスタートが早い。同グループではスキッフル/ロックンロールを演奏していたが、58年にはメンバーの離脱を受けて解散。しかも父親の仕事の関係で、生まれたばかりの末弟アンディを含むギブ一家はオーストラリアに移住することになった。

 一家はブリスベンの北東にあるクイーンズランド州レッドクリフに住まうようになると、腕に覚えのあった兄弟たちは小遣い稼ぎのために音楽活動を本格化する。60年にはビル・グードというプロモーターに雇われてレース場でレースの合間に演奏し、観客からの投げ銭を稼ぐようになった。グード経由でラジオDJのビル・ゲイツ(もちろんあの人とは別人)に紹介された兄弟は、ビル・ゲイツとビル・グード、そしてバリー・ギブの共通するイニシャル=BGからグループを命名される。そこからビー・ジーズの名称が誕生した。その後の数年に及ぶ活動の結果、63年に彼らはリードンというレコード会社と契約してデビュー・シングル“The Battle Of The Blue And The Grey”を発表。すでに曲作りの才を発揮していた長兄のバリーは他のアーティストへの楽曲提供も行いつつ、自分たちの楽曲をどんどん書いていった。

 下積みを経て65年にはシングル“Wine And Women”が小ヒットを記録し、同年11月には初のアルバム『The Bee Gees Sing And Play 14 Barry Gibb Songs』をリリース。この時点での音楽性は欧米のロック・バンドやヴォーカル・グループを意識したビート・バンド的なものだった。商業的な不発からリードンの契約を解除されるも、前後して出会ったアメリカ出身のプロデューサー、ナット・キプナーと出会って彼が仕切るスピンへ移籍。そして生まれたのが全豪5位まで上昇する初の大ヒット“Spicks And Specks”(66年)だ。その評価に確信を得たのか、兄弟は英国に帰ることを決断する。その渡英前に彼らの父親はビートルズのマネージャーとして知られるブライアン・エプスタインにデモを送っていた。

 エプスタインの指揮するNEMSにいたスタッフのロバート・スティグウッドはデモを受け取り、帰英した兄弟たちにオーディションを行う。こうしてスティグウッドに見い出されたビー・ジーズは67年2月に英ポリドール(米国ではアトランティック系列のアトコ)と契約を果たす。この時点でバリーは20歳ほど、弟たちはまだ10代であった。