ザ・バンドから離れ課外活動へ
バンド内の絶妙なバランスが崩れつつあることを感じ取ったのか、『Stage Fright』と前後して、ロビーは早くも課外活動に目を向け始める。1970年にリリースされたジェシ・ウィンチェスターのデビュー作『Jesse Winchester』はロビーにとって初めてのプロデュース作。ここに収録された“The Brand New Tennessee Waltz”は、新たなスタンダードとしてエヴァリー・ブラザーズやジョーン・バエズなど、多くのミュージシャンに取り上げられることとなる。

他にも、ジョニ・ミッチェル『Court And Spark』(1974年)への参加や、ハース・マルティネスやニール・ダイヤモンドのプロデュースなど、ザ・バンド在籍中にも印象的なセッションワークを数多く残している。

カンフル剤を打つ必要に迫られた過渡期
ザ・バンドの4枚目『Cahoots』(1971年)はアラン・トゥーサンやヴァン・モリソンを迎えて制作された意欲作。だが裏を返せば、外部からのカンフル剤が必要なほど、バンドの制作へのモチベーションは最悪だったといえる。デビューからわずか3年とはいえ、下積み時代を含めれば10年以上を共に過ごしているわけだけだから、過渡期を迎えるのも当然といえば当然ではあるのだが。

続く5枚目『Moondog Matinee』(1973年)が全曲ロックンロールのカバーだったことからも、当時のバンドの状況がうかがえる。

一方でライブ活動は絶好調で、1972年のライブアルバム『Rock Of Ages』は全米6位の大ヒットを記録。アラン・トゥーサンのホーンアレンジにより楽曲に新たな活気が吹き込まれ、触発されるようにバンドも強靭なグルーヴで応えている。

ボブ・ディラン&ザ・バンドの偉大なる復活
1973年10月、ザ・バンドの面々は慣れ親しんだウッドストックを離れ、カリフォルニアのマリブへと移住する。ドラッグの坩堝から逃れたかったこと、音楽産業の中心が西海岸に移っていたことが理由だが、この前後にロビーはジョニ・ミッチェル、そしてアサイラム・レコード社長のデヴィッド・ゲフィンと連れ立ってパリの映画祭を訪れており、映画界への興味を深めていたことも移住の一因となったと思われる。
西海岸での最初の仕事は、アサイラムと契約したボブ・ディランとのアルバム『Planet Waves』(1974年)の制作。ディランとの蜜月がスタジオレコーディングとして発表されるのは初めてのことだった。特に印象的なのは2曲目の“Going, Going, Gone”。ディランのボーカルの隙間を、絶妙なタイム感で這い回るロビーのギターを堪能することができる。

リリースに伴い、ディラン&ザ・ホークス以来となる全米ツアーも開催。当時の苛烈なブーイングから8年が過ぎ、40公演すべてがソールドアウトするなど、大きな期待感を持って迎えられた。このツアーの様子はライブ盤『偉大なる復活(Before The Flood)』(1974年)で聴くことができる。ディランの既存曲も大胆かつ強靭にアレンジされ、ライブバンドとしてのザ・バンドがまだまだ健在であることを実感できる。

ディランとのツアーを終えたザ・バンドたちは、マリブに建つかつての高級娼館をレコーディングスタジオに改装。〈シャングリラ・スタジオ〉と名付け、そこが彼らにとっての新しいビッグ・ピンクになった。再び始まった共同作業により、4年ぶりのオリジナル・アルバム『南十字星(Northern Lights – Southern Cross)』が1975年に完成。ロビーのペンも冴え渡り、“Ophelia”や“同じことさ(It Makes No Difference)”など、「ラスト・ワルツ」でも演奏される彼らの代表曲が数多く収録されている。
