©Hirosuke Katsuyama

BOB DYLAN at BUDOKAN
1978年、ボブ・ディランがついに来日した。武道館とその時代を巡る記憶

大事件であり、お祭り騒ぎ

 今年4月の来日公演も盛況だったボブ・ディラン。彼が初めて日本の土を踏んだのは78年、45年前のことだ。その歴史的瞬間は録音され、翌年にLP2枚組のライヴ・アルバム『Bob Dylan At Budokan』として当初日本のみの条件でリリースされ、ファンからの要望で欧米でも遅れてリリースされた。そして日本側の長年にわたる粘り強い交渉が実を結び、今回ついに未発表録音の蔵出しを含む拡大版『The Complete Budokan 1978』がリリースされる。ディラン・ファン、特に日本のファンにとっては、とても嬉しいニュースだ。

BOB DYLAN 『コンプリート武道館』 ソニー(2023)

 そのアルバムの存在から、初来日というと、8回の公演が行われた武道館のイメージがあまりにも強いが、金沢在住だった僕は大阪の松下電器体育館で3回行われた関西公演を観た。チケットぴあ以前の時代だったので、地元の放送局の知人がコネでまとめてチケットを購入し、借りたワゴン車に7~8人くらいが乗り込んで大阪までワイワイと出かけた。そのくらいの大事件であり、僕らにとってはお祭り騒ぎでもあった。

 その頃までには人気のロック・バンドや歌手が続々と来日するようになっていたが、60年代から活躍するロック界のアイコンと呼べる超大物は、66年のビートルズ以降、73年のローリング・ストーンズの来日中止という残念な事件もあり、ディランが初めてと言ってよかった。同行したクルーの一員で、写真家としても知られるジョエル・バーンスタインが〈まるでビートルズが来たみたいな騒ぎだった〉と回想しているが、それは大げさではない。ビートルマニアのような女の子の泣き叫ぶ熱狂はないから、ヒステリックな大騒ぎではなかったが、ディランが初めて我々の前に姿を現すことへの興味の広がりは予想以上だった。

©Hirosuke Katsuyama

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 ちょっと面映ゆかったのは、ディランをずっと追いかけてきたファンの多くよりも上の世代の人々や、日頃は海外のロックやポップにそれほど興味を示さない主流メディアも大いに関心を寄せたこと。例えば、岡林信康に連れられて、あの美空ひばりがディランを観に来たというニュースはかなり大きく取り上げられた。

 ただ、そういった人たちにとって、ディランはよくわからない存在だったようだ。その紹介は〈風に吹かれて〉のボブ・ディランといった程度の形容にとどまっていた。公民権運動やベトナム反戦運動が高まっていた60年代に、プロテスト・フォーク歌手として、若者のヒーローとなった男という10数年前のイメージから抜け出ていなかった。60年代半ばにロック・バンドを従え、隠喩と寓話に満ちた想像力豊かな曲を歌いはじめ、ポピュラー音楽の表現と言語を変えてしまったアーティストという重要な認識を日本の世間一般はまだ共有していなかったのだ。

 だが、僕らのように新作が出るたびに即買い込んでいたファンは、ディランがそのたびに見せる新たな顔に驚き、しばしば戸惑いながらも、彼の歌にいつも新たな世界に連れていかれた。とりわけ来日に先立つ74~76年はディランのルネッサンス期で、彼のアーティスト・パワーが65~66年に匹敵する高まりを見せて、最重要期の古典的傑作に肩を並べる作品を続けて発表する濃密な年月だった。

©Hirosuke Katsuyama

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 74年のザ・バンドとのアリーナ級の特大の会場ばかりを回った大規模な全米ツアーで、その復活を高らかに宣言すると、そのツアー前にザ・バンドと録音した『Planet Waves』(74年)、ソングライティングに新しい技法を持ち込み、アーティストとしての成熟を見せて、最高傑作の一枚となった『Blood On The Tracks』(75年)、そしてエキゾティックな味わいもあった『Desire』(76年)の3枚が全米チャート第1位に輝く大ヒット作となり、芸術的だけでなく、商業的にももっとも成功を収める。とりわけ『Desire』は日本でもよく売れて、初来日の実現にも道を開いた。ヒットの要因は、日本だけでシングル・カットされた“One More Cup Of Coffee(Valley Below)”の異国的なメロディーとこぶしを効かせた歌唱がそれまでディランと無縁だったような人たちの耳にも届いたからだという。

 また、75年の〈ローリング・サンダー・レヴュー〉の話題は、海のこちら側の僕らですらワクワクさせられた。ジョーン・バエズらフォーク界の旧友たちからグラム・ロッカーだったミック・ロンソンまでの多彩な顔ぶれと旅回りのサーカスのような一座を組み、予告も直前までせずに小さめの会場を中心に回ったゲリラ的なツアーだった。そして並行して、“Hurricane”という曲を書下ろし、無実の罪で刑務所にいた黒人ボクサー、ルービン“ハリケーン”カーターの再審と釈放を求める運動も行なった。ロックがどんどん巨大なビジネスとして成長していった時期に、そんなディランがどれほどかっこよかったか。

 その〈ローリング・サンダー・レヴュー〉の第2期ツアーのコンサートは、76年のライヴ・アルバム『Hard Rain』になったが、その映像版のTV特別番組は日本でも放送された。『Hard Rain』で聴ける歌と演奏は、バンマスのロン・ストーナーが〈ほとんどパンク・レコード〉と表現したように、ラフな激しいもので、これまたびっくりしたものだった。